支離滅裂の日記/知と無知の繰り返し

人生を分かろうとしては分かったつもりになったり、分からなくなったりを繰り返している。今はそれが分かったらしい。

物事を理解することは自分がその構成系より高次に意識を維持することであるが、人生において常に自分はその理解対象と同じ次元に存在することを強いられている。自分が人生を理解したと感じた時、自分の意識は1つ高次の段階に達するが、その瞬間に世界は自分と同じ次元に追従し、「1つ低次の世界を認識した自分のいる次元」が産まれる。その次元を認識すればまた自分の意識は高次に達するが、やはり世界は追従し、未知の次元が産まれる。

つまり、自己の存在する世界を理解することは、不可能ということだ。例えば、自分の目の前に大きなディスプレイ、背後にカメラがある様子を想像してほしい。自分はカメラに捉えられディスプレイに映し出された自分を見ることができるが、その自分はまた別の自分を見ている。そうやって視界の先には無限に自分を観察する自分が映し出されることになる。そこに存在する自分は自分が産み出したものでもなく、今ここにいる自分と同時に存在しており、時間的な階級は存在しない。全てが自分の誕生と、起源を共にしている別の自分。もし自分が登場する物語をひたすらにメタ化したなら、瞬時に爆発的な次元の認識が起きかねない。人間の処理能力に限界が無ければ、脳は他の思考回路を失っていただろう。

つまり我々は基本的に常に無知の中にいる。高次に達した瞬間の刺激を持って、「知」を得たとしているだけで、それは高次の無知にシフトしただけに過ぎない。知とは、状態ではなく、現象なのだ。

この結論が、新たな無知を導いたかもしれないが、今のところ自分は認識できていない。それはきっと、幸せなことだと思う。

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