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ニュータイプのジャイアンのはなし

先日誕生日を迎えることが出来ました。

大学2年の頃から誕生日は
「誰かのお役にたつ日」
と定義してバスで知らない街に行き
知らない人のお役に立つ事を探してました
些細なことですが席を譲ったり
重い荷物を持つおばあちゃんを手伝ったり
今考えると「祝われる」ということに対して
何かこう照れ臭さとか居心地悪さを感じていたのかもしれません

生まれてきた意味ってなんだろう

自分が生まれてきた意味ということが
あるのか?
ないのか?
そんなことは分かりません
ましてや答えがあるものでもないのかもしれません
しかし何となく
「自分の命」を実感するには
「誰かのために命を使う」ことに答えのようなものがあるのでは?
という感覚だけがありました。
それだけの感覚的なことなのかもしれません。
ただ、「やさしさ」に触れる(提供する)ことで自分を実感したかった
だけなのかもしれません。


生命という隔たりのない存在


つい先日観た映画
「はじまりへの旅」(原題:Captain Fantastic)
の余韻がいまだにあります。
数日たった今、映画からもらったギフトは命への問いかけでした。
※以下、映画に関するネタバレを含みます

人間には「大人」や「子供」というセグメントはなくて
地上に生まれてきた「人間」という存在なだけな気がします
人間という存在は短くも長くも「命」をまっとうする
ただそれだけの存在

映画の中では子供たちが母親を
「命をまっとうした存在」として送り出します
具体的には火葬し、遺灰を遺言通りにトイレに流すという儀式を通して。

具体的儀式は置いておいて個人的に感じた感覚は
人間が人間を送り出す
そして命という物は永遠に存在するもの(物質や物体に執着することなく)
この感覚が非常に大きな気づきをもたらしてくれています

様々な仕事や取り組みを通じて
人間は孤独で、理解できない存在だと強く感じるようになりました
同時に
孤独だからこそ繋がれて、理解しあえないから歩み寄れる
そんな存在だという感覚も強まりました

子供達も人間
大人たちも人間
なんら変わりもなく、敬意を持たれるべき存在であり
もともと人間とは個人や単体の生きものではなく
全体性を纏った存在なのではないか
と感じています

全体性をまとうニュータイプのジャイアン

誕生日にいつも考えることは「死」についてです
生まれたからには死がついてまわります
「死」とは何か
終わりのようでもあるし、畏怖されるようなイベントでもある
しかし、生も死も継続性のあるひとつの意識の流れだと感じます

誰かの助けを借りなければ死に至ってしまうほど
か弱い赤子から人間の本質を感じ
死をもって人間のわびさびを知る

映画の中で主人公のパパが亡くなったママにこう語りかけます
「俺の手は俺の物、俺の口も俺の物、俺の眼も俺の物、しかし俺という存在全てはあなたのものなんだよ」

ニュータイプのジャイアン笑

ありとあらゆる分断を越えていくもの
それは私たちの意識の解放なのかもしれません

昨日より分断を超えた、素晴らしい1日を‼︎

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