見出し画像

84歳寅年京子ばあちゃんの老いるを楽しむを書き留めてみる その二十四

夫が製袋会社の社長になったのは48歳でした。

夫が社長になった会社は、もともと私の父が戦後につくった「金子商店」という会社でした。設立して5年で亡くなってしまいましたので、その後は人手に渡ってしまいましたが、設立当初は、のちに総理大臣になる佐藤栄作さんと出会ったことで、ダム建設で大量に出たセメントの袋を再生する事業を立ち上げ、会社は大きく成長したそうです。

おかげさまで、父が会社を設立してからの数年は夢のようなお嬢様暮らしでした。けれども、以前にもお話しましたが、父が亡くなると同時にその会社も人手に渡り、私は父の伝手を辿って、なんとか社員として働かせていただき、夫と出会いました。

それから30年後、なんと、夫がその会社の社長になるのです。なんという巡りあわせでしょう!社長に就任したと聞いたときは、感慨深いものがありました。父が天国から運命の糸を紡いでくれたのかもしれません。

社長になった頃はバブル時代の真っ只中でしたので、景気も良く、新しい家に引っ越すと長女の孫たちも遊びに来て、長男は高校生で、次女もまだ家にいて、にぎやかで、人生で一番華やかな時代でした。

その頃は外食に出ることもよくありました。お寿司は千日前の「一半」。すぐそばに吉本新喜劇の会場があって、時々吉本の若い芸人さんたちが先輩に連れられて、「ここのお寿司を自分のお金で食べられるようになったら一人前や」と、話されていました。

そして、畳屋町筋辺りにあった「京小づち」という小料理屋さんは、物腰の柔らかいご夫婦のおもてなしが心地よくて、記念日には家族で伺いました。初めて蟹の甲羅揚げをいただいたときは、感激しました。今でこそ、冷凍食品で売っていますが、当時はハイカラでした。

ハイカラと言えば…
私の父は宮崎県日南市の出身で、9人兄妹の7番目の男でしたので「徳七郎」といいます。戦時中、転々と疎開した際、父のお兄さん・長男の亀一郎さんのお宅にお世話になった時のことです。小さい丘の上に農園があって「農園のおじさん」と呼んでいました。

農園にはアケビがなっていて、シャモ等のニワトリは10種類ほどもいて、豚も、池には鯉もいて、穏やかな気候で、焼け野原の大阪から疎開してきた私にとってまさに楽園でした。

ハイカラだったのは、その農園のおじさんの奥さん。とてもお洒落な方で、この時代に、ワッフルを焼いてくれたのです。世の中にこんなにおいしいものがあったなんて…と、戦時中ということを忘れさせてくれる出来事でしたので、とても良く覚えています。もちろん、お砂糖は貴重品でしたので、今のような甘さではありませんが、当時は夢のようで、今でも目を閉じるとあのワッフルが目に浮かびます。

食べ物のことはいくらでも思い出せますね。嗅覚、視覚、味覚を刺激することが良い人生につながるのかもしれませんよ(^^)♪

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?