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Malcolm X Day.

今日、2/21はマルコム Xの命日。

1965年、マンハッタンのワシントンハイツ地区、オードゥボン舞踊場での演説の際に、観衆の中にいた男が持つ短銃(散弾銃)による銃撃により15発を受け搬送先の病院で亡くなった。

ここでは、

自分とマルコムXについて、人権問題について、自分の思いを綴る。

この記事を書こうと思う理由は、日本や世界での昨今の混乱した人権意識について思うことがあるからだ。

Malcolm X出会いのきっかけ

自分とマルコムXの出会いは中学2年生の頃だったと思う。当時ストリートファッションに夢中になり、街に二件しかなかった書店に通い詰めては、当時新しい波であったHIPHOPにまつわる記事が載っていた雑誌や本を片っ端からチェックしていた。

雑誌で紹介されたブラックムービーや新しくインフォメーションされていた映画の公開情報などにも意識を張り巡らせていた。「BOYZ’N THE HOOD」「NEW JACK CITY」「JUICE」「JUNGLE FEVER」などがもう既に地元 斜里のレンタルビデオ屋の片隅にひっそりと陳列してあった。もちろん片っ端からみてみるものの、当時中学生の自分には内容よりもブラウン管に映る、憧れのアフロアメリカン達のファッションや真似したくなる仕草の為にチェックしていた。

その流れの中で、当時NBAのスーパースターだったシカゴ・ブルズのマイケル・ジョーダンと一緒に雑誌に映るスパイク・リーという映画監督の存在に気付く。先に書いた「JUNGLE FEVER」の監督であり、ブラックカルチャー内で広く認知されている代表作は「DO THE RIGHT THING」だ。

その雑誌の中に映るスパイク・リーのファッションは、カラフルなベースボールシャツ、インナーにはTシャツ全体にプリントされた星条旗柄の「X」の文字、さらに被っていたベースボールキャップにもフロントにXだけの刺繍が施されていた。(さらにいうとキャップには缶バッチやピンズで装飾されていた)

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当時、ダンスに夢中だったから、深夜に放送されていた「DANCE DANCE DANCE」(のちにHOUSE ENEGYに改名しRAPグループなども登場したフジテレビ系コンテスト番組)や、「DADA」(Choo Choo Trainのお茶の間ヒットで有名になったZOOを輩出した番組)をよく録画チェックしている中で、色んなダンサー達が被っているキャップで、既にファッションとしてのXキャップの存在は知っていたのだ。

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そのキャップやTシャツ、BBシャツをブランドとしてやっていたのが、この映画監督のスパイク・リーだと知った。当然あらゆる手段を使ってこのアイテムをゲットする為に行動する。

三つ離れた姉が修学旅行で東京に行くと知ると、取り扱っている店の住所とお金を渡して買ってきてもらったり、当時所属していたブラスバンド部の全道大会進出が決まれば、夕方の自由時間には、そのブランドを取り扱う店に駆け込んだ。

このブランドは、いわゆるファッションの見た目の良さだけでなく、何かメッセージめいたものを感じた。もしかしたら札幌のその店舗だけのことかもしれないが、このブランドを買うとショッピング袋の中にブランドコンセプトの説明書きのコピー紙が封入されていたのだ。

そこで初めてブランド名を知る。

「40 acres & a mule (フォーティーエーカース アンド ア ミュール)


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そのコピー用紙のような説明書きの詳細は覚えていないが、スパイク・リーのこのブランドに込めたコンセプトが記されていた。

ブランド名の由来は、

40エーカーとラバ1頭(40エーカーとラバいっとう、40 acres and a mule)とは、南北戦争後に解放されたアフリカ系アメリカ人の奴隷(解放奴隷)に対して約束された補償を意味する言葉である。農地とするための40 エーカー(16 ヘクタール)の土地と、鍬(くわ)代わりの1頭のラバを与えることにより、その土地で耕作ができる、というものだった。アメリカ合衆国では解放奴隷に対する「破られた約束」の代名詞として知られている。(ウィキペディア)

であるようなことが記されており、

もともとが、小学4年の頃に習ったアパルトヘイトの疑問からアフロアメリカン(黒色人種)に興味を持った自分にとっては、かなりの感銘を受けたものである。


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長らく脱線してしまったが、この辺りからファッションだけでなくスパイク・リー自身にも興味が移り、その頃にタイムリーで全国一斉公開されることになったのが

デンゼル・ワシントン主演の「マルコム X」だった。

もちろん、イナカである斜里には映画館は既に無く、近くの市町村でリアルタイムに観れる場所もない、このような政治色の強い映画を観るだけのために自営業で忙しい親が唯一の上映開催地だった札幌までは連れていってくれる可能性はゼロに等しい。

しかし、諦めきれない中2当時の私は、親を説得し、札幌までの一人旅行を決めた。札幌にいる親戚に電話をして、泊めてもらう約束も自分で付けた。

今思うと、アスペルガー気味の自分がよくそこまで行動したなと。好奇心とは、計り知れないパワーだなと感じる。

ギリギリの予算で向かった札幌では、いとこのお姉ちゃんに映画館まで地下鉄で連れてってもらった。その時にできるとびきりのオシャレをして。

通販でゲトったXキャップにピンズと缶バッチを付け、

唯一持っていたCHICAGO WHITE SOXのベースボールシャツをディスカスのパーカーの上に重ね着し、

ラスタベルトを付けたペインターパンツの裾は、Dr マーチンの8ホールにブーツインって具合だったと鮮明に覚えている。そんな格好は、当時の札幌でも浮いていて連れて歩くのを恥ずかしがられた記憶がある。

大好きな服やCDのショッピングを我慢し、一本勝負で映画鑑賞にピカデリー札幌(だったと思う)に向かった。約3時間半という長さも、政治的映画であることも当時の自分には初体験だった(それまでは映画といえばロジャーラビットとかロボコップとかエンタメ系ばかり観てた)

すごい集中力で見た記憶がある。活字の本を読むのが苦手だった自分は、マルコムXという人物と業を知る方法はこれしかないと思っていたからだ。


芽生えた人権意識

映画を観終わったあとは、頭から煙が出そうなほどプシュー...となって疲弊していたが、そのまま乗った帰路の夜行バスの中では、映画の内容を回想して自分なりに人権について考えたりして、この体験を境に、なんだか情が移ったように差別者に対する憤りが湧き上がってきた。

今の人権意識や差別問題にTwitterなどで言及する俺の背景はこれである。



このように、自分がダンスやHIPHOPのシーンで口うるさいおじさんになった背景は、なんて事のない普通の好奇心でファッションや音楽のゲートから入ったものであり、特別なものではない。決して知識をひけらかしたいというエゴではなく、ダンサーや各プレーヤーが「HIPHOP」という肩書きをチョイスするなら最低限の背景への知見を持たないと、憧れの対象であるアフロアメリカンに対しての敬意にかける。

戦後から続くアメリカ国の支配下である日本において、いつまでたってもイエローモンキーでJAPSでNIPPSだ。リスペクトの対象ではなく素材として使うBLACKはFAKEでWACKだと声を大にして言いたい。Nワード使う日本人なんてもってのほかだ。この日本の中でファッションなどの表層面だけを真似して、本質から目をそらすような人は、いざ憧れの本国アメリカに行ったとしてもアフロアメリカンの苦労の歴史を知らないうちは、対等に肩を並べれることは難しいだろう。

誤解を恐れずに俺の目線で言うと、

「恥ずかしい猿たち」に映るのだ。

深い考察の中でチョイスし続けたファッションでも、その辺りを言及すると「重い」「難しい」と多数に跳ね除けられ全体主義の中で精神的孤立を経験した、「難しいめんどくセーやつ」というなんらかの精神的いじめを受けた若い頃もあった。

物事を深く考察する個性は、プロパガンダに染められた全体主義の中で孤立していく。

幸いにも、自分は学校の勉強は大嫌いだったし、自分の興味の向く方向に従順だ。

自由というものを掴む術を自分の実践の中で身につけれたのだと思う。

昨今、2012年 安倍政権発足から現在までの時代は、急速に民主的側面よりも独裁的側面が目立ち始めた。平等であり自由を担保する空気はみるみる失っているように感じる。所得の高い人と低い人の分断はもう既に始まっており、その中に内包する社会生活での所得差別という現象はこの先想像に難しくない。

多分そう遠くはない先の未来に、経済弱者の側になった人たちが平等な市民権を得るための一つの指針として、マルコムXやキング牧師、モハメド・アリやブラックパンサー党など自分たちの人権を守るために戦ってきたアフロアメリカンたちの精神は手本になる面がかなりあると思う。

はっきり行って日本はもはやアメリカ国内での差別問題が形が違えど他人事ではなくなるのだ。

毎年2月はアメリカではBLACK HISTORY MONTH(ブラックヒストリーマンス)という黒人の歴史を振り返る月間である。

HIPHIPを愛する人にとっても、人権意識の高い人にとっても、また昨今のマリファナ議論に関してでも、所得の差は関係なく文化の背景からこのような黒人史を参考にしてみるのもいいのではないかと提案したい。

今、まだ冷静な情があるうちに。。



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