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私の書評論

あなたは書評がどのような営みであるかを考えたことはあるだろうか?書評と似たものとしてよく読書感想文が挙げられるが、本当にこれら二つは似ているのだろうか?私は、所属しているコミュニティの基礎教養部という活動の一環として書評をする機会を頂いているのだが、ふと「書評とは何であるか、またどのような性質を持っているのか」という疑問が浮かび、自分自身が本当の意味で書評をできているかが心配になった。そこで、書評という概念を再確認し、より自覚的な視点を持った上で書評に取り組むという目的意識のもとにこの文章を書いている。


まず、書評の一般的な定義としてコトバンクの記述を引用する。コトバンクには、書評とは
「主として新刊書籍の内容を批評すること。通常、筆者紹介、内容の紹介や分析、客観的な位置付けなどが行われるが、印象批評の色彩が強いものや、なんらかのカテゴリーやテーマを設けて類書を選択・比較するものも含まれる。」と書かれている。書評という言葉自体からも読み取ることができるが、書評には「書籍を批評する」という姿勢がある。この姿勢こそが書評と読書感想文の最も大きな相違点となる。読書感想文では「〜が良いと感じた。」と書いても許容される。しかし、書評として文章を書くのであれば単なる感想であってはいけない。「著者や作者がどのような事を核として本を書いたのか、書籍内で主張している事が本当に妥当であるか、全体の話の流れの中に一貫した哲学があるかまた、その哲学とは何か」といった部分まで熟考し、書籍と一定の距離を保ちながらも誠実な態度を欠かさずに行われるべき営みである。当然、書評を書く際に用いるのは自分の言葉であるため言葉に責任が生じる。書評の真髄とは、自らの言葉に責任を持ち一身に引き受けるということにある。自分自身の思い・思想・思考の軌跡を自らの責任の上で書く、書を評するには相応の覚悟と胆力が必要である。
また、書評を語る上で「他者へ本を紹介する」という意識は非常に重要である。書評では、自分が読み取った事を自らの言葉で他者へと伝える。その際、「何を書いて伝えるか、何を書かないで伝えるか」を自覚的に表現し、他者へと伝える必要がある。ここで重要なのは自らの表現に自覚的であることだ。表現全般において「自覚的」であることは肝要な概念だが、自覚的意識が大切であると気づくのは容易ではない。しかし、書評においては自らの言葉で批評をする以上、読者の存在を鑑みることもその自覚の範疇であり欠かせない要素の一つである。このような意味で、書評を読む他者の存在を意識せざるを得ないのである。

ここで、私が以前書評をさせて頂いた『「リベラル」という病』の著者の岩田温氏の書評論を紹介してみたい。
なお、以前私が書いた書評は下記のものである。


また、ここでは以下の動画を参照させて頂いている。

この動画内で岩田氏は「言論人・知識人の誠実さを見るときには、その人の書いた書評を見るのが一番良い」と述べている。この意見はかなり核心をついた指摘ではないかと思う。書評をする際に、対象の本を最後まで読み通すことは初歩的な事柄ではあるが非常に大切だ。本を通読して持った意見や感心した事を自身の言葉で伝えようと苦悩すること、また自らの言葉に責任・覚悟を持つ、それこそが書評に取り組む者の責務であり誠意なのである。このような点から、書評に誠意または人間性の本質の端緒が垣間見えるという指摘に強い共感を覚えた。
また、「どのような本であっても著者に敬意を表し、良い点を見つけようと心がけている」という岩田氏の姿勢を素晴らしいと感じた。多くの場合、筆者は本を書くのに多大なる労力を掛けると思うが、その労に対して敬意を払い通読するのは最低限必要な向き合い方ではないだろうか。私は「本に対して誠実に向き合い自分なりの言葉で伝える」という姿勢を、自らの書評の核に据えたいと思った次第である。

以上、書評という営みについて考えてみたが、主に「書評に取り組む姿勢」について考えが自分なりに纏まった。私自身も書評をする人間の一人として、確固たる信念を忘れずに書評に取り組もうと再認識した。もし、書評をしてみようと考えている人や日頃から書評をする人がこの記事を読んで下さっていたならば、是非自分なりの書評論について考え、書評に取り組んで頂きたいと思う。

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