聞けない言葉

 三時間の及ぶ乗用車のを終え、雅(みやび)は鳥取県網代港と到着した。車内からここが指定された場所であることを再度確認した後、所定の駐車場に車を慎重に収めた。
 雅が車から降りた時、そこに居合わせた者達の反応は彼女にとってはおなじみのものだった。好奇と少しの嫌悪、それは無理のないことと彼女は思っている。高級外車であるアウディーA8の運転席から黒いドレスを着た小柄な女性が出てくれば目を引くのは当然のことだろうと。これらについては全て雇用主からの借り物である。黒塗りの車もゴシック趣味の服や鞄、財布、化粧品に至るまであらかた支給品である。いわばこれらは彼女の制服のようなものである。少し癖の強い雇用主ではあるが彼女としては特に不満の持ったことはない。
 平日とあっても昼時ということもあるのだろう駐車場には何台もの観光バスが止められている。前方に見える店舗へと向かう通路は店に向かう者と多くの荷物を抱えバスへと引き上げる者達で少し混雑している。
 雅は彼らの間を縫って多数ののぼりに飾られた入口へと向かう。魚の匂いに混じり若干の酒の吐息が漂う中を歩いていると、スマートフォンから入電を告げるアラームが聞こえて来た。つかの間そちらに気を取られた雅は前方から歩いてきた紫色の髪の老女と衝突しそうになった。軽く彼女に詫びを入れた後、すばやく雅は近くに止めてあった三菱のRV車の脇に駆け込んだ。
 鞄から取り出したスマートフォンを通話状態にし、耳を傾ける。
「はい、雅です」
 先方は名乗ることなくスピーカーの向こう側からは紙がこすれるようなカサカサという音が聞こえるだけである。
 ややあって中年女性の声がただ一言聞こえて来た。
「ちからがほしいか」
 また紙がこすれる音。雅は息をのみ次の言葉を待った。
「主税(ちから)が干しイカ、スルメの一夜干しね。誠二さんはノドグロの干物、できるだけ大きなものを、それからいいエビがあれば買ってきてちょうだい。あなたも何か食べたいものを見つけたらお買いなさい。帰りも気をつけてね」
「はい、わかりました。奥様」
 雇用主である広瀬奈津美からの買い物の追加を告げる連絡だった。たわいのない連絡だが、なかなか聞くことができないあの有名なセリフ聞くことができた雅は少し嬉しくなった。荷物はトランクいっぱいになりそうだ。
 RV車の影から出た雅は鮮魚店へとまっすぐ歩いて行った。

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