早朝の独り言

文章を書くのが好きだ。

手書きで文章を書いていたときは気が付かなかったが自分で文章を書くのが好きであることをnoteや就活で感じるようになった。タイピング能力が向上したことが大きな理由だと思う。

私はお世辞にも字が綺麗な人間ではない。筆を通して文章を書こうとするとどうにも乱雑になってしまってウンザリしてしまう。テクノロジーがノイズを取り除いた結果本質が見えた良い例だろう。

私は幼いころから人と面白いと感じる感性的なものがズレているみたいで、どんなに自分では面白いと思う文章を書いても周りから評価されてこなかった。例えば読書感想文とかレポートで。

しかし今年とあるyoutuberの雑談配信(お悩み相談的なもの)で自分が寄稿したお悩みの文章に対して「文才」というコメントをしてくれた人が居て驚かされたのと同時にとても嬉しかった。ネタ的な意味で書かれた可能性もあるが私にはそれがたまらなく嬉しかった。今でもそのことを思い出してニヤニヤしていることがたまにある。

自分と感性が合うヒトが見つかり、孤独感から解放されるのがインターネットの良さの一つだと思う。

私はインターネットがなかった時代を知らない人間だが積極的に触れていない頃は常に寂しさを感じていた。感性が他人とどこか合わないのだ。趣味や考え方、笑いのツボなど。昔の私を知っているヒトは私を無個性な人間だと思っていたのだろう。私は周りとのコミュニケーションを重視して出来るだけ趣味や感性を合わせようとしていた。家族に対しても。そういう環境で自分を出せるほどの心の強さが私にはなかった。

私が自分を出せるようになったのはここ1、2年のことだろう。twitterで同じゲームが好きな人と集まったり、プリパラ好きな人と交流したり、本当に自分の好きなものを語り合えるヒト達と出会えたことで私は孤独感から解放されたのだと思う。

今では初対面の人に対しても何が好きかと聞かれたら本当に好きなモノを答えている。自分の好きなモノが言えると他人が好きなモノに対しても寛容に受け入れることが出来ると思う。

・・・文章の話をしていたはずがかなり脱線した。

幼いころのトラウマってものは大人になっても脳裏にへばりつく呪いのようなものだ。例えば幼いころに歌っていたら母親や姉に下手と言われた思い出が今でも残っていて、人前で歌うことに対して抵抗ある。客観的に考えると実際にはそんなに下手でもないということを頭で理解しているのだが、それでも抵抗がある。やはりこれは呪いと言うのがふさわしいのではないか。

私は一人称コンプレックスがある。ベースは「僕」なのだが「俺」にも「私」にもなってどこか気持ち悪さを感じる。

何かトラウマがあるのかと言えば、昔父親に一人称を「俺」強制されたことがある。当時の私にはとても苦痛だった。ずっと「僕」と言っていたのにどうして「俺」に変えなきゃいけないのか。当時も今もわからない。

小学生に上がったときに周りが「俺」を急に使いだしたことにとても驚いたのと同時に「僕=ダサい」という風潮が流れ出したことに違和感を感じていた。私から言わせてみれば「俺=偉そうでダサい」というイメージなのでできるだけ使いたくなかった。しかしながら周りから浮きたくなかったので学校内では「俺」を使うことを肝に銘じていた。

この前そのエピソードを友達に話したら「それはアイデンティティクライシスだね。」と言っていたがまさにその通りだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?