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「やりたいこと」で生きない

フラフラと生きているせいで、「やりたいことを見つけてから頑張ればいいんだよ」と優しい言葉をかけられることが多い。

だが生憎、やりたいことを探そうとも思わない。自分には向かないからだ。
「やりたいことをやっている」は3パターンほどあると思う。

①仕事や、活動に納得している人が後付けで話しているだけ

小さい頃から目指して夢を叶えた野球選手ですら、その道がたまたま上手くいったからやりたいことをやっていると話しているだけに過ぎない。

もし、野球を挫折してサラリーマンになっていても、素敵な家族と恵まれた職場で楽しく生きていたらやりたいことができていると話すだろう。

②幸せだと自分を錯覚させるための言い訳

売れないバンドマンが、これで幸せだと言い聞かせるための言い訳。否定的な言い方になってしまったが、辛いことがあってもやりたいことを続けられるパワーがあるのはすごいことだ。とうてい真似できない。

③楽しくて夢中になっていて、好きだから続けられる。

もちろん、この気持ちもあるだろう。一般的なやりたいことをやっているだ。
上に挙げた2つのパターンだって、大小はあれどこの気持ちも含まれるだろう。

僕のやりたいこと

そんなものはない。
なぜ、みんなやりたいことが欲しいのか?
それは人生に満足感を得たいからに過ぎない。

僕はとても飽き性だ。一つのことを長く続けること自体が幸せじゃない。一つにこだわることは苦痛だ。だから、強いてやりたいことを言えば、
「味のするうちだけいろんなことをやってそれなりになって満足することを繰り返す。そして、いろいろできる風な人になって人生をなんとなく他人から見ても楽しそうに見せること。それでいて、ある程度、一般的な道から外れ過ぎず、心の平穏を保つこと。」

こんなところだろう。やりたいなにかを探すなんて、性に合わない。

何も成し遂げられないくだらない人生だと思うだろうか。他人の目を気にして、幸せになれない人間だと思うだろうか。

しかし、これも全部自分だ。受け入れて開き直ってしまった方が楽だ。みんなで競争して1番なんて目指す胆力はないし、誰にも受け入れてもらえないことに対して努力もできない。全く立派な人間じゃない。
目の前にあることに何となく満足できていることで十分だ。

もちろん、このままでいいのかとか、生まれてきた意味があるんじゃないかとか考えてしまう日もある。

幼い頃を思い出してみてほしい。
狭い世界の中で、ある程度やりたいことをやっていたといえるのではないか?
それでそれなりに幸せだったのではないだろうか?それでなにか不都合があっただろうか?

子どもの頃とは違うことはもちろんわかっている。

でも、成功者みたいな人と自分を比べてしまったり、何となく将来が不安になってメランコリーになった時には、こうやって、なんとなくの理論で納得した気になって誤魔化すくらいでいい。

特別なやりたいことや夢に縛られて生きる必要はない。ちょっとの刺激と、心の平穏があれば僕たちは幸せに生きられる。それで満足できない変人達はとっくに別の道を探してる。

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