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コロナ禍を戦争になぞらえる二つの論法

コロナウィルスは鏡に似ていますよね。私たち人間はコロナを語ることによって、無意識に抱いている願望を表明するためです。そこに映し出されるのは、自分自身の似姿です。

最近、東京オリンピックに反対する意見を目にして、少し考えさせられました。
いわく、コロナ収束の目処が立たない中で精神論に訴え東京オリンピックの開催を強行することは、アメリカに勝てないと分かっていながら開戦に踏み切った太平洋戦争のときと同じである、と。
これは日本政府の意思決定システムを批判するときに、太平洋戦争を引き合いに出す論法ですね。

一方、現在のコロナ禍を太平洋戦争になぞらえるもう一つの論法があります。
いわく、コロナ対策に協力しない人をあたかも人でなしであるかのように迫害することは、戦争に協力しなければ非国民と罵られていた戦時中と同じである、と。

たしかに今は非常事態かもしれませんが、迫害は非常事態においてのみ発生します。逆にいえば、迫害者は今が非常事態であると強調しがちです。

あくまで私の印象なので間違っていたら申し訳ないのだけど、コロナ封じ込めに成功している国は総じて全体主義国家であり、日米欧など人権が守られている先進国はコロナ対策に苦戦している印象があります。ここでの先進国とは生活の豊かな国という意味ではなく、非常事態における強権発動が行われにくい国のことです。

たしかに戦争に協力しなかった非国民とは、文学的抵抗といえば格好いいけど、要は周りに合わせられない人のことで、たとえば醤油一気飲みして徴兵を逃れるなど、現代でいえばマスクしないおじさんと同じタイプの人間だと思います。とはいえ、モラルが壊れていることを恰好いいと勘違いしている迷惑系おじさんによるマナー違反に対する許容度は、文化的な成熟度を計測する一つの尺度となりそうな気もします。

この手の政治的話題に価値判断はつきものだけど、できるかぎり私見を交えず、観察に徹したいと個人的には思っています。コロナというコンテンツをレビューする人をレビューするようにして。


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