見出し画像

エッシャー通りの赤いポスト(社会から時代へ)

エッシャー通りの赤いポスト


 松枝佳紀くんがプロデュースした新作「エッシャー通りの赤いポスト」を観てきた。いろいろなことを考えさせられ、思い出させてくれた映画である。少し長いが、遠回りして自分の記憶を書いてみたい。


1.1970年前後


 僕は1968年に大学に入った。4年間はモラトリアムを決めていたので、大学の講義は適当に受けて、自分の関心のあることや、多様なアルバイトに精を出して、資金稼ぎと社会の実態ウォチングに明け暮れていた。

 当時は、敗戦のゼロから始まる戦後復興の高度成長の真っ盛りであった。それは同時に高度成長の限界を感じさせる時代であった。特に、高度成長の消費者であり生産当事者ではなかった若い世代は、親の世代の単純な社会建設の方法論に疑問を持った。

 「生産」とは違う社会の意味があると思った。それが若い世代からはじまったカルチャーの勃興につながっていく。当時、ロック&コミックスは、双子の兄弟と言われていた。バリケードの中では、ロックと少年マガジンがあった。僕も白土三平・つげ義春が掲載されている「ガロ」を買い、手塚治虫の「COM」を買い、真崎・守と宮谷一彦の掲載されている雑誌を神保町の古本屋街で1冊10円で買いまくった。

 そして一方では、新宿のロック喫茶「ソウルイート」に入り浸り、GFRやジャニスの音に浸っていた。ロックとマンガは確かに、双子の兄弟のように、僕の生活の中にあった。

 もうひとつ別のカルチャーがあった。それは、演劇と映画である。それはまるで双子の姉妹のようなものであったかも知れない。僕も、寺山修司や唐十郎のテントに行き、大学の学園祭でやるアングラ演劇と呼ばれていた、無名の同世代の演劇によく誘われた。大学の友人だった石井くんは、天井桟敷に入り「書を捨てよ、町に出よう」とステージの上で叫んでいた。

 映画もまた70年代前後はある種の黄金時代であった。先輩たちがすすめたゴダールなどのヌーベルバーグに酔い、鈴木清順の美学に驚き、池袋の文芸坐のオールナイト6本立ての任侠映画に通い、銀幕に映る高倉健さんが、我慢を重ねた上で敵の事務所に殴り込みをかける場面では、観客と一緒に「異議なし!」と声を挙げ、警察が来ると「ナンセンス、カエレカエレ」とコールをしたりしていた。加藤泰、山下耕作、降旗康男、石井輝男、職人監督たちの映画に溺れた。そして、徹夜で池袋のオールナイトを観て、高揚したまま、高田馬場の早稲田松竹(この映画にも出てきたので笑った)で、朝から次の映画を見ることもあった。

 新宿にはアートシアター(ATG)があった。そこでは、低予算だったが一流監督が大手映画会社では制作出来ないような実験的な映画を作って上映していた。新宿は僕の故郷でもあり、ATGの会員になると割引になり、新作の案内が届いた。地下には、更に実験的な映画を上映する「蠍座」(命名者は三島由紀夫)があり、大林宣彦のCM作品集や、「伝説の午後はるかなるドラキュラ」のような大林さんの学生時代の実験映画も観た。

 ATGは、新宿文化の中心みたいな空間で、演劇やパーティみたいなものもやっていた。「骨餓身峠死人葛」は野坂昭如の原作を、江田和雄の演出でやった。僕の叔父が江田さんの飲み仲間であった頃からチケットがまわってきた。瑳峨三智子と土方巽が主演で、座席のすぐそばに二人がからみあいながら走り抜けるというスリリングな演劇体験をした。時代を感じる空間だったのだ。

画像1

 観客の側として映画や演劇に触れていたのだが、友人たちの中には、制作側に移っていったのも少なくない。


2.映画青年たち

 僕は新宿区の四谷で生まれたのだが、母方の両親の家の庭みたいなスペースに小さな家を立てて、僕の家族はそこで暮らしていた。母の弟である叔父は、僕の6歳ぐらい上で、一人っ子である僕にとっては兄みたいな存在であった。文学青年で、明治大学では文言評論家の平野謙に学び、卒論は、太宰治の斜陽だったかを映画のシナリオにするものだった。文学と映画が好きで、高校生時代に彼から、小説現代を借りて五木寛之のデビューを知り、大江健三郎の本を借りた。僕は太宰は嫌いだったが。若くして亡くなってしまったが、彼と僕とは6歳しか違わないのに、世の中に対する意識は大きく違うものがあった。僕は団塊世代の端っこで、戦争体験はまるでないが、彼には幼年時代の苦しい時代の記憶があるように見えた。何か虚無主義のような気配があり、しかし、僕にとっては何か思い切りのなさを感じた。彼から時代の最前線の情報を受取りながら、上の世代に対する反発も持った。

 映画に向かった友人たちは自主映画を作り始めた。大学の映画研究会の連中は理論に走るタイプが多く、エイゼンシュタインのモンタージュ理論から、松本俊夫の「映像の発見」に向かった。「映像の発見」は読んでみたが、よく分からなかった。後日、この本の編集をしたのが、子ども調査研究所の高山英男さんで、書名を決めたのも高山さんだと、あとで聞いて驚いた。

 ATGで松本さんの「薔薇の葬列」を観たが、無名のピーターが初出演する、めまいのするような映像美だったことを覚えている。

 バイトで知り合った青山学院の親友、山口豊寧は、ドキュメンタリー映像にこだわり、バイトしては資金をつくり、足尾に通い、足尾銅山の現在を取り続けていた。僕は写植屋をやっていたのだ、タイトルまわりの写植をうった。彼はその後、岩波映画に入り、ドキュメンタリー映像を撮り続けたが、岩波映画が破綻して、アジアのロケ先でその情報を知った山口は、自費で映像を完成させた。おそらく、岩波映画の最後の作品なのだろう。

 311のあとに再会して、足尾の映像をメタブレーンで再販した。

足尾74夏・・・・そしてフクシマ原発事故の2011秋


3.「空みたか」

 白石真一さんは、僕の先輩である。大学も違うし、何かのサークルや組織で一緒だったわけでもない。言ってみれば、時代の先輩である。白石さんは、早稲田のノンセクトラジカルの活動家だった。学生運動の党派活動に限界を感じて個人になろうとした活動家たちが集まった「遠くまで行くんだ」という雑誌があり、日本で最初にゲバルトをやったと言われている小野田襄二さんが主宰していた。早稲田の反戦連合は、その拠点になっていた。

 僕が白石さんと出会ったのは70年ぐらいで、もう大学のバリケードも解除され、燃えカスのような小さな騒乱が時折あるぐらいだった。四谷に「もっきりや」という、早稲田のひなちゃんという女性が経営する店があり、僕は、家も近いこともあり、そこで、さまざまな人たちと交流していた。ここで出会った人たちに、僕は多くのことを学ばせてもらった。

 白石さんは、大柄で、デブではないが、筋肉質の太めで、笑うと目が消えてしまうような、ほんわかした雰囲気の人だった。よく汗をかいていた。彼は、いろんなバイトをやっていて、僕はよく一緒にやらないかと誘われた。品川の荏原にある、害虫消毒の会社は、長く二人でバイトをやった。シロアリは初夏にハアリになるので家の人が気が付き相談に来る。僕と白石さんと社長でお客の家に行き、床下をはいずりまわって、水回りのある柱のところに到達すると、電気ドリルで穴をあけて、油剤を注入し、コルクの栓を差し込んでハンマーで打ち付けるのだ。小柄な僕が狭い縁の下をはいずりまわり、社長は床上の方から指示を出し、白石さんが床下の入り口で中継するという役回りである。

 シロアリもゴキブリも南京虫も大量に駆除したが、シロアリ駆除は初夏になると、大島や三宅島の方から仕事が入る。もともとシロアリは南方系で島伝いに入ってきたらしい。3人で、いろんな島に行き、酒を飲んで過ごした。

 白石さんの友人だか親戚が、岡山の方の人で「空みたか?」という自主映画を作ることになった。それの東京事務所が早稲田の神田川のほとりのアパートの一室になり、そこでいつも酒盛りをしていた。僕は、映画にはノータッチだったが、白石さんや仲間たちが宴会になる頃に顔を出して、よく参加していた。

 ある時、みんな酔っ払ってきて、勝手なことを言い出したのだが、僕も、なんか気が大きくなり、白石さんのことを語りはじめた。それは、白石さんは良い人なんだけど、「なんで、白石さんがモテないか」ということを、延々と論理敵に話し始めたのだ。白石さんは、ものすごく優秀なお姉さんがいて、そのお姉さんに頭があがらないことが原因ではないか、みたいなことを言ったのかも知れない。最初は、「キツカワ、馬鹿言うなよ」と笑って受け答えていたが、こちらの語りが止まらなくなり、だんだん、白石さんの顔が白くなってきた。

 いきなり持っていたホッピーのコップが僕の額に向かって飛んできた。コップは割れ、猛烈な勢いで血が流れ、畳一畳が血だらけになった。額がものすごく熱くなったのは覚えているが、アルコールが入っているからか、痛みはまるでなかった。

 別の先輩がタオルを渡してくれて、傷口を押さえて、白石さんの顔を見ると、呆然としている。「シライシ、しっかりしろ」と先輩がどなって、はじめて我に返ったような感じになった。そして、僕は、白石さんに背負われて、近所の救急病院の大同病院にかつぎこまれた。白石さんは、僕の発言にむかついて、ホッピーの酒をかけようとして、酔って握力がなかったのか、コップごと僕に投げつけてしまったようだ。

 それでも、僕が回復したら、何事もなかったかのように、元の明るい白石さんに戻り、また普通の信頼関係の中での生活がはじまった。

 それから何年かして、白石さんの噂を聞いた。友人にそそのかされて映画制作にのめりこみ、実家の不動産を担保に金かれてつっこんだが、どうもだまされたみたいだと。白石さんは、テレビ制作の国際放映などの仕事をして、テレビ番組で、戦隊ものの爆弾を爆破する仕事をしていると聞いていて、「ああ、ぴったりじゃないか」と知っている者同士で笑っていたのだが。

 その後、何度か会ったが、映画製作の失敗の話しは出なくて、映像の世界で活躍している感じであった。最後に会ったのは、10年くらい前だろうか。お金を借りに来て、断った。少額だったが、こんな少額を借りに来るって、それはかなりやばいんじゃんいの、と言って断った。

 白石さんの死を聞いたのは数日前だ。当時の先輩と電話で話していて、「白石、死んだぞ」と聞かされた。気まずい雰囲気で別れてしまって、そのまま死んでしまうのは、ずるいよ。人を血だらけにしといて、勝手にいなくなるなよ。なんとも、反応のしようのない重りのついた時間が流れた。「ジョーさんも死んだよ」。小野田襄二さんも今年のはじめに亡くなったことを聞かされた。

 こうやって、当たり前のように時代は死んでいくのだ。


4.「エッシャー通りの赤いポスト」

 六本木で「エッシャー通りの赤いポスト」の試写会を観た。

 観ているうちに、1970年の自主映画を作っている連中たちのことを思い出してしまった。ここには、なんの生産性もないものを作る情熱だけが、あふれかえっていた。51人の無名の人たちが、時代にむかって突撃している。

 病に倒れた園子温が、挨拶で、「最初に戻って映画を作りたい」と語っていた。

 バブルで捻じ曲げられた時代の先には、未来はない。一度、戻って、一人ひとりが、本当にやりたいことのために行動するところから、やりなおさなければいけない。

 この映画は、そうした僕らの共通の時代意識を感じたものにとっては、ある種の勇気と確信を与えてくれるだろう。

 企画プロデュースした松枝佳紀くんの活動と合わせて、園子温と51人の新人たちの今後に注目したい。

松枝佳紀くんの活動(アクターズ・ビジョン)

 僕は生産性のための社会に生きるのではなく、生きていることを確かめる時代の上で生きるのだ、と若い時に書いた。時代を生きる者も死んでいく。しかし、その人の生きた証と思いは、次の時代を生きる人たちに伝わっていくのだ。さよなら、白石真一。



ここから先は

0字

橘川幸夫の深呼吸学部の定期購読者の皆様へ こちらの購読者は、いつでも『イコール』の活動に参加出来ます。 参加したい方は、以下、イコール編集部までご連絡ください。 イコール編集部 <info@equal-mag.jp>

橘川幸夫の深呼吸学部

¥1,000 / 月 初月無料

橘川幸夫の活動報告、思考報告などを行います。 ★since 2016/04 2024年度から、こちらが『イコール』拡大編集部になります。…

参加型メディア開発一筋の橘川幸夫と未来について語り合いましょう。

『イコール』大人倶楽部 『イコール』を使って、新しい社会の仕組みやビジネスモデルを考えたい人の集まりです。『イコール』の刊行をご支援して…

橘川幸夫の無料・毎日配信メルマガやってます。https://note.com/metakit/n/n2678a57161c4