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橘川は雑誌的な人間なので、人類のタイムラインと一緒に疾走していくのがロックだと思っていたので、立ち止まって過去を振り返ったり、自分を客観的に眺めて描写したりする小説が嫌いだった。嫌いというのではないかもしれないが、方法論的に違うと思っていた。そういう余裕はないと思っていた。 大手出版社には、雑誌部と書籍部があって、仲が悪い。それは方法論が違うからだろう。 そんな橘川が突然、小説を書いてみたくなったのは、50歳を越えた時だ。50歳で自分の人生は終わったと思い、生前葬を行って
岩谷宏が1970年後半に書いた原稿を、毎日、一本ずつアップしている。 1972年に創刊した「ロッキング・オン」は、岩谷さんの言葉を借りれば「他人事ではない雑誌」として、まさに自分事として、世の中をとらえ、音楽を聞き、原稿を書いた。 私は大学生の途中で、日暮里の写植屋に弟子入りして写植を覚え、「たちばな写植」という会社を東中野に立ち上げ、そこがロッキング・オンの編集部になった。編集長は渋谷陽一だが、僕は編集室長として、スタッフからの原稿や投稿原稿を編集していた。