見出し画像

普通の素晴らしさ

先日、子に誘われて『しん次元!クレヨンしんちゃんTHE MOVIE 超能力大決戦 とべとべ手巻き寿司』を観てきた。

こんなに笑い声が劇場のあちこちで響き渡る映画って久しぶり、いやはじめてかもしれない。おもしろいし、泣けるし。忙しなく動く感情は最終的に収まるとこに収まって、また次回作も見ようと子と固く約束し映画館を後にした。

ちょっとおバカな5歳児が色々やらかすという前知識くらいしかなくて(しんちゃんの素晴らしさを理解してなかった私がおバカでした)、そもそもクレヨンしんちゃんをちゃんと観たことがなかったのだけれども。

これはいい。これは心を平和にしてくれる。だって将来の夢と題して、白飯を画用紙いっぱいに描くのですよ、しんちゃんという子は。その理由に唸ってしまった。

そういえばこの間、朝のニュース番組で大谷選手の快挙が放送されていて、5歳の息子と「ひゃー大谷選手すごいねー」「大谷選手かっこいいねー」と話をしていた。私は何の気無しに「ねぇ◯◯もさ、大谷選手みたいにプロ野球選手になりたい?」と聞いてみたのだ。そしたら息子は、「いや、普通がいい」という。これには驚いてしまった。なんて現実的というか、夢がないというか。

でも普通であることも、十分素晴らしいと母も思っているよ。多くの人に夢を与えてくれる人はもちろん素晴らしいが、普通であることも特別であることと同じように尊いと思う。わかりやすい幸せも見落としてしまいそうな些細な幸せも優劣がないように、特別であることも普通であることもその価値は本人が決めればいいと思う。
とはいえ、そう私が思えるようになったのは大人になってからだ。10代の頃なんて特に常に誰かの特別でありたかったし、普通なんてつまらないと思っていた。それが一般的とは言い難い試練に立ち向かわなければならなくなったとき、そこではじめて普通であることを渇望した。

だからこそ5歳から「普通がいい」という答えが返ってくるなんて思ってもみなかった。ましてや自分が5歳のとき、「将来は、ひみつのアッコちゃんになりたい」「テクマクマヤコンでみんなの憧れの職業に変身したい」とか宣っていた気がする。

さて、冒頭のしんちゃんが描いた白飯。これは、「普通のしあわせ」を体現しているようだった。だれもが羨む特別な夢ではないかもしれないが、だれもが必要としていること。だからといって決して簡単な夢でもない。
しんちゃんと我が家の息子を同じ土俵にあげて大変おこがましいが、まだこの世で5年ほどしか生きていないのに「普通」の素晴らしさをこの人たちは気づいているのかもしれない。

すごくないか、5歳。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?