検非違使別件 八 ⑮
泥蓮尼が住まう小さな尼寺にも足を運んだが、もぬけの殻だった。仁木緒は逆上した。
……明日、焼死した四人の遺骸を検める!
多紀満老人と千歳丸にそう宣言し、鳥辺野にてその手伝いをするよう命じた。
このことを仁木緒は帰宅して真っ先に、父の周宜に打ち明けた。
「善良そうに見えて不届きな輩です! きっと最初から泥蓮尼とゆずかを逃がすつもりだったのでしょう」
広縁では申し訳なさそうに稲若が肩をすくめて縮こまっていた。その向こうでは茜色の雲がたなびいている。
「ごめん……仁木緒さま。おいらがちゃんと見張っていなかったから……」
「それはおれの不手際でもある。二人を見張れ、とあらかじめ命じておかなかったのだから」
苦い表情で腕組みしたとき、杣信と世古が食膳を運んで来た。漬物と屯食を盛りつけた皿が周宜の前に置かれ、仁木緒にも配られた。
世古が稲若の手を取ると「居間にお入り」とうながした。みなと夕餉を食べなさい、という親切ではない。
「まったくお前は機転が利くのか気が利かぬのか、わからぬ子だ。あたしらが主人の給仕をしていれば、新参者のお前も腰をあげて動くのが当たり前だろう! さっさと汁を椀によそうがよい。でないとお前に飯はやらぬぞえ」
「あ、はい……」
あわてて稲若が囲炉裏に近づいた。鉤手にひっかけた鍋からは、猪汁の香ばしい強い香りが立ちのぼっている。
すでに杣信が椀に猪汁を取り分け始めていたが、その仕事を稲若にゆずり、上座にいる周宜の肩に帷子を羽織らせて退室した。
汁椀が配られると、そそくさと世古が周宜の隣に移動する。汁椀の具を箸でつまみあげ、しきりに息を吹きかけてさましている。いつものごとく、周宜の食事を介添えし始めた。
「心得違いもはなはだしいわい……」
大儀そうに周宜が身動きする。不自由な左ひじを置いた脇息が、体重の移動でぎしりと鳴った。汁椀の肉片を口に入れかけていた仁木緒はムッとした。
「父上、なにが心得違いなのです。確かに、わたしの任としては荒彦を探し出して捕縛すればよいだけのこと。それゆえ最初、荒彦を連れ去った舞姫の笛吹童子に扮していた『ゆずか』と申す少女を稲若に庁へ連れてくるよう命じました。千歳丸に会い、荒彦について詳しく知るために罪状を洗い出してみたのです。……しかし、それが濡れ衣である可能性が出て来たのですから、見過ごせません。それとは別に、石川彦虫が刑部省の息のかかった錦行連らに殺され、わたしも襲撃されました。庁がこれ以上の混乱をきたさぬためにも間違いは正すべきです」
「ゆえに、焼死者四人の遺骸を……その目で確かめる……と?」
「そうです」
仁木緒は大きくうなずいた。肉片を口に入れる。普段なら好物の猪肉の濃厚な脂が口に拡がり、胸の奥が温かくなるのだったが、このときは風味も何も感じられなかった。
柔らかく煮えた根菜を世古が周宜の口に運んでいる。その箸をうるさげに押しのけて、周宜は怒鳴りつけた。
「大ばかもの! 仁木緒よ。おぬしは、おのれが一介の看督長じゃということを、忘れたのか!」
「いかに父上といえど、言っていいことと悪いことがあるでしょう」
屯食をつまみあげ、一口ほおばって仁木緒はジロリと父をにらんだ。
「荒彦が濡れ衣と……それが確かなことだとしても」
「では、父上は濡れ衣と知りながら脱獄囚を捕縛すればよいとおおせですか?」
「ちがうッ。そもそも、放火殺人の取り調べを最初におこなったのが、誰だったか……よく考えてみるがよい」
「文屋兼臣さまです。あの御仁が、千歳丸から何か聞き出せるであろうと教えてくださった……」
言いかけて仁木緒はハッとなった。口中の屯食をごくりと飲み下す。周宜がフンと鼻を鳴らす。
「上つ方々が、検非違使に醜聞を嗅ぎまわられるのは不徳の至り……。高貴な貴族は外聞、体面が清らかでなくてはならぬ。……登任さまの伎楽殿で火事があり死人が出たことで、邸の内情を調べに役人が首を突っ込む……。そのわずらわしさを避けるため、犯人を差し出さねばならなかった……。文屋兼臣さまは、そういう呼吸をお読みになって、差し出された荒彦を獄につないだということだろう」
「ですから、文屋さまも解決に尽力してくださるとお約束してくださったのです」
「仁木緒、それを改めて、おぬしが独断で再捜索して……よいものか、どうか」
「まあ! それじゃあ荒彦って人はお気の毒すぎるじゃありませんか」
周宜の語尾が終わらぬうちに、素っ頓狂な声を上げて世古が箸を置いた。仁木緒がいる方向に膝をむけ、前のめりになって口を上下に動かした。
「仁木緒さま、必ず本当の犯人をあばいておやりなさいまし! 放火も人殺しもしていないのに投獄されるなんて、ひどすぎます! その文屋ってお方もいけませんよ。初めからちゃんとお調べになっていれば、こんなことにはならなかったでしょうに」
「そうではない」
ややうんざりしたように、周宜がぼそりとつぶやいた。
「検非違使庁の役人は、民のために働くわけではない。律(法)のためでもない。すべては帝の御為に……その帝がおわします都のケガレを清め、帝にお仕えする高位の貴人たちもまた……ケガレてはならぬ。罪というケガレを、払うために働くのだ」
一気に言い放ってからうめくような声で一つ吟じた。
けふよりは かへりみなくて 大君の 醜の御盾と 出でたつわれは
検非違使庁が発足する以前、天平勝宝のころ今奉部与曾布という防人が万葉集に残した歌である。歌の中にある「醜(しこ)」とは容貌の醜さを表すのではなく、勇猛さを表現していた。
「この防人の歌はいまの検非違使官人の心意気でなくてはならん。帝をお守りする勇ましい盾であることをおのれに課す。それが検非違使の検非違使たるゆえんじゃ」
「なんだかわかりませんけど」
乱れてもいない髪に手をやって、世古が肩をすぼめる。
「濡れ衣をかぶせられた気の毒な人は、どうでもいいっておっしゃっているように聞こえますよ。本当の犯人が捕まらないなら、焼け死んだ人たちだって浮かばれません。きっと怨霊になってあちこち漂うに決まっています」
「だから、僧や修験者がいるのだ」
「おやまあ! 争ったり祈ったり、お忙しいこと」
憤慨した動作で肩をそびやかし、改めて世古が箸を取る。猪汁の具をつまんで周宜の口に運ぶ。咀嚼する口元を手巾で軽くぬぐってから、再び仁木緒に向き直った。
「周宜さまがおっしゃっている意味、お分かりに? 仁木緒さま」
「役人として出過ぎてはならぬ……ということでしょう」
苦い表情で腕組みし、仁木緒が続けた。
「検非違使であっても触れることができぬ貴族の邸での犯罪。ところが荒彦脱獄があって、別件として扱うことになり……。おそらく文屋さまは好機と見たのではないでしょうか。無気力を装って、わたしをけしかけたのではなかったか、と今では思います」
「だが、そこは最初の聴取で触れることができなかった文屋さまじゃ。こたびのことで、おぬしが独断で鳥辺野にて遺骸を検めることになれば」
「文屋さまは面目を失ってしまう……」
「そうじゃ、上役の頭上を越えるような差し出たマネはするでないぞ。それになにより、ひと月前の焼死体を……あの鳥辺野から見つけ出せると思うてか?」
囲炉裏の炎が風にゆらめいた。仁木緒はあぐらをかいた膝に両手をつけて、鍋の底をなめる炎を見守った。
父、周宜に指摘されるまでもなかった。
鳥辺野のような広い風葬の場では、そこここから死体が運ばれてくる。餓死した物乞いや病で死んだ者、五位や六位の位階を持つ貴族。彼らの遺体はその場に置かれ、野ざらしにされる。あるいは天空へ魂を送るために鳥に食べさせる必要があり、死体は木の枝に吊るされることもあった。
平安京の郊外にはそういった葬送地があって、東に鳥辺野、西には化野、そして北には蓮台野がある。
鳥辺野の入り口は、あの世とこの世の境界を意味する「六道の辻」と称されて寺がある。
三位以上の位階を持たねば、墓を建てることが許されていない。鳥辺野は高位の貴族の遺骸を一日かけて荼毘に付す火葬場でもあった。
「広大な鳥辺野に分け入って、果たして……ひと月前の焼死体を見つけられるのか」
周宜がたたみこむ。仁木緒の決意を推し量るように。
「鳥についばまれていよう。野犬に死肉をむさぼられてもいよう。骨はばらばらになり、どれがどれやら分からぬ様子になり果てているはず。それでも……」
「真実を突き止めねば死者が哀れでございます。必ず、骨を検めます」
「では、せいぜい文屋さまの顔を潰さぬよう……あらかじめ、文でお伺いをたてておけ」
「そういたします」
言い放ってから、胸の奥でそっと首をかしげた。
(おれはなんだって意地を張っているんだ……)
漬物を咀嚼し、猪汁を胃の腑に流し込む。残りの屯食を口に入れた。
鳥辺野で風葬されている、四人の焼死体を検める。
確かに、真実をつきとめたいという強い動機にいつわりはない。
だが、そう思いついたきっかけは、やや感情的でもあった。
泥蓮尼とゆずかがいなくなり、二人から聴取できなかった無念。その無念をこのままにしておけるものか、という苛立ちだ。
それなら死者を確かめよう。
舞姫さゆりが本当に死者であるのなら、その骨を目にすれば納得できるはず。
鳥辺野のどのあたりに風葬したのか、案内人もいる。
千歳丸は言ったのだ。
……はい、鳥辺野の山腹にお運びし、四人並べて経を読みましてございます……。恐ろしい場所ですが、骨を検めて手を合わせたいとおおせなら、きっとそこへお連れいたしますよ……
仁木緒は箸を置いた。
「ええい、世古。野菜ばかり食わせるな。猪肉はどうしたッ」
周宜は本当に腹を立てたらしい。世古が差し出す箸を邪慳に押しのけた。叱られたことに目をむいて、世古が鼻を鳴らす。
「忘れたのですか? このあいだ、肉が嚙み切れぬと文句をつけたあなたさまでございましょッ」
「おのれ、口答えするかっ。わしの食事の給仕などありがた迷惑じゃ。座興に琵琶でも一曲、奏でるがよい」
「なんと人使いの荒いじぃさまになったこと」
そういう一部始終を居間の片隅で見守っている稲若を、仁木緒は手招きした。正座で足がしびれたらしく、稲若は両手を床板についてそろそろと近づいた。
「食事が終わり次第、おれは文屋兼臣さまに文を書く。遺骸を検めることをお知らせするのだ。その文を明日の朝、一番で庁へ届けろ」
「おいらは鳥辺野に行かなくていいのかい? そこに石見丸も運び込まれて眠っているはずだよね」
「もう石見丸には別れは告げただろう。……行きたいのか?」
稲若は黙って首を振った。
「じゃあ、杣信と一緒に飯を食ってこい」
「うん」
よほど空腹だったのだろう。うれしそうに稲若が台所へと立ち去った。
居間には仁木緒と周宜、世古だけになった。
「あたしの琵琶が聞きたいと、素直におっしゃいなさい」
すみに置いてあった琵琶をひざに抱えると、世古が撥を動かしはじめる。弦をヨォォォンともベェェンとも響かせる。やがて気まぐれに和歌を口ずさみ、琵琶の音にのせた。
……大空に 照る日の色をいさめても 天のしたには たれか住むべき……
思わず仁木緒と周宜が顔を見合わせた。世古がくりかえした。
……大空に 照る日の色をいさめても 天のしたには たれか住むべき……
この上の句は、新古今集雑下歌にある女蔵人内匠のものだ。
かつて都では紅花二十斤で絹一匹を染めた「深紅色」が爆発的に流行った時期がある。内裏に勤める女房だけでなく、商家につとめる女たちまでが深紅色のとりこになった。いや、女だけではない。若い貴公子たちも深紅色の直垂で蹴鞠を楽しんだ。
この染色代金は安く見積もっても二十貫である。二十貫といえば、都中の貧民の大半が養える経済だ。実際、この染色代金のために潰れる商家もあり、貴族も邸を手放す始末だった。
ついに「深紅色を着用するのは奢侈である」と廟堂で議され、加えて「深紅色は火の色であり、焦りの色であり、妖しの色である」という迷信の扇動もあって禁令が出されたのである。
検非違使はその取り締まりにあたり、下部の者たちに「街路でこの色の衣をまとっている者を見つけたら、即刻その衣を破れ」と命じた。
当時の女蔵人内匠もまた検非違使の尉・源中正に衣の色をとがめられた。そのとき詠じたのが
……大空に 照る日の色をいさめても 天のしたには たれか住むべき……
である。
空を染める夕焼けの色をいさめるなら、その空の下に誰が住むでしょうか……という上の句で優雅に抗ったのである。
源中正はその機転に感心し、衣を破らずに下の句をつけている。
……かく言へりければ たださすなりにけり……
そうおっしゃるなら、正さずにおきましょう。
その後、源中正と女蔵人の内匠は恋仲になったと伝えられている。
「なかなか艶のある唄いだしだの」
周宜は機嫌よく屯食をつまみあげた。左半身が不自由なため、唇の左端から粟粒がこぼれる。それを右手の指で探るようにして口に運んだ。
「見ろ。世古よ、そなたがいなくても飯くらい普通に食えるのだ」
周宜が威張っている。
「ほほほ、かく言へりければ たださすなりにけり……でございますね」
琵琶の弦がヨォォォンと響き渡った。
翌、寅の刻(午前三時)。
暁の勤行を告げる鐘の音を近くの寺が告げたころ、仁木緒は床を出た。
鳥辺野へ行くのだ。縁側からまだ暗い空を見上げ、ふと、おのれの属星の名号を七回唱えそうになる。
(橘貞麿でもあるまいし……)
頭を振って寝床を片付けた。そうしている間にも、以前聞いた橘貞麿の声が脳裏によみがえってくる。
……よいか、我々の生まれた年は、それぞれ北斗七星を形作っている星のどれか一つと結びついているのだ。それを属星という。……子年生まれなら『貪狼星』。丑年と亥年は『巨門星』。寅、戌年は『禄存星』。卯年、酉年は『文曲星』。辰年と申年は『廉貞星』。巳年、未年は『武曲星』。そして午年は『破軍星』じゃ。……これはありがたい宿曜経、密教の天文学から割り出されし吉凶の占いにちなんでおる。おのれの星の名を低い声で毎朝起きたときに七度唱えれば、運が開ける……
これから「あの世」とも称される風葬地へ赴くために、仁木緒も少々緊張している。
(魔除けの意味で、属星を七回唱えた方がよいのではないか)
迷ったものの、水で顔をすすぐとそんな考えはさっぱりと消えていた。
自室へ戻り、狩衣に着替えてから文箱を引き寄せた。そこには昨夜のうちにしたためた文屋兼臣宛ての文が入っている。折りたたんだ紙片を開き、あらためて目を通した。
一か月前の荒彦の犯罪について疑義があり、焼死体を検めることを了解していただきたいという趣旨の文章がまとめてある。
父に指摘されて用心したのは、この遺骸検めを『文屋さまのご命令ということにしていただけませんか』という一文を入れたことだった。
……脱獄を許してしまった看督長として、荒彦を追補するのは当然の責務。それを放擲するのではありません。あくまで検非違使庁の威信を護るために必要な措置をとることをお許しいただきたく、この文をしたためます……
と断りを入れてある。
……最初に文屋兼臣さまがおこなった聴取の相手、伴家継どのが海賊・能原門継とのつながりを隠蔽せしめようと姦計をめぐらせ、荒彦に濡れ衣を着せた上で庁へ差し出したとすれば、藤原登任さまの体面をおもんばかり、疑惑を抱きながらも受け入れざるを得なかった文屋さまの苦しい胸中をお察しいたします。
……このたび、荒彦脱獄によって追捕が別件として扱われることになり、『焼死者四体の遺骨を鳥辺野にて検めよ』と看督長・佐伯仁木緒に文屋さまが極秘に命じたということにしていただけないでしょうか? これには理由があります。もしも、伴家継どのの供述内容がウソで荒彦は濡れ衣であった場合、検非違使をだましたということになり、しいては御上(帝)をだまし奉るに等しい不敬ということになり得ます。そして邸から出火してご謹慎なさっている藤原登任さまもまた、いま以上の大きな傷をこうむってしまわれます。
……たいへん難しい案件ゆえ内々に捜索をすすめる必要があり、ここは文屋さまが秘密裏に遺骸を検めさせたということにしていただき、事の詳細を報告奉りたいと考える次第です。その結果を文屋さまの御判断にゆだねることをお約束いたします。
……現在、荒彦の名義で獄中にある能原門継の悪事を、白日の下につまびらかにさせていただければ幸いです……
細い筆で木簡に下書きするだけで神経を使った。それを紙に清書したのだ。仁木緒自身が再読しても、ややもったいぶった文章でまとまりに欠ける気がした。あちこちがぎこちない。
(うんざりするほど、おれには文才がない。しかし、これは公文書ではないんだ。私信に近い上役へのお伺いなのだから……)
大意を汲み取っていただければよいのだ、と気を取り直した。ふと思いついて硯に水を差した。墨をすり、細筆で末尾に書き足した。
……鳥辺野での遺骸検めは本日の午の刻(正午)ごろとなりますことを、ここにご連絡申し上げます……
署名し、墨が乾くのを待つ。午の刻と書いたものの、少し心許なかった。
(おれ一人なら昼前にすませられようが……同伴者二人と羅生門で待ち合わせたのち、鳥辺野の葬送地へ向かうのだ。多紀満老人は足腰が弱いかもしれない)
文を自分で直接届けて、その場で許可をあおぐべきだと分かっている。だが、前日ゆずかと泥蓮尼を見失ったのだ。日をあけずに多紀満老人と千歳丸に会っておきたい。上役の許可を待っていては、老人も千歳丸も身を隠すのではないか。そんな不安がある。
(これはただの焦りなのか?)
腕組みを解いたとき
「朝粥のご用意ができました」
稲若が声をかけてきた。文をそのままにし、仁木緒は返事をして居間へ入った。
すでに上座には周宜がいて、隣には世古が手巾を手にして座っている。重ねた木の椀を運んで来た稲若に、仁木緒が声をかけた。
「稲若、お前も一緒に食え」
「え、いいのかい?」
目を見張る稲若に、鍋から粥をよそっている杣信がこわい顔を向けた。
「そういうとき従者は、『よろしいのですか?』と言うものじゃ。まったく、なっておらぬ」
「杣信、口の利き方はゆっくり教えてやってくれ」
席についた仁木緒は稲若に座るよううながした。
「お前は今日、文を届けたり泥蓮尼を探したり、忙しくなるぞ」
「はい」
まだ眠そうに目をしばたたく稲若の前に、熱い粥の椀が置かれた。
「おいら、二度と仁木緒さまをがっかりさせません」
「期待しているよ」
そそくさと粥を流し込むと、最後のひとさじを世古に給仕されていた周宜も食べ終わった。手巾で口元を世古にぬぐってもらうと、不自由な左半身をかばう動きで周宜がぎこちなく立ち上がった。
「佐伯は武門の家じゃ。鍛錬するぞ。鉾を持って庭へ出ろ、仁木緒」
父の周宜は勤めを辞めても、寅の刻に起きて仁木緒と一緒に粥をすすり、鉾や太刀の稽古をするのを日課としている。
仁木緒は迷惑そうな表情を隠さず抗議した。
「昨夜申し上げたでしょう、父上。これから鳥辺野へ参るのです。途中、多紀満老人と千歳丸の二人と落ち合わねばなりません」
「では小僧、稲若と申したな? 鉾を教授してやる、庭へ出ろ」
「えっ、おいら?」
ぎょっと顔を強張らせる。仁木緒がさえぎった。
「稲若はわたしの文を文屋さまに届ける仕事があります。それに父上の指導は危なくって仕方がない」
「わしのどこが危ないと申すのだ」
「鉾を振りかざして目を回して倒れそうではありませんか。とにかく、稲若に武術の手ほどきは後日にしていただきます」
「うん、そうだよ」
明らかに安堵した声色で稲若がうなずいた。
「鉾の練習はまたあとでね、じいちゃん」
「小癪な! わしはおぬしのじじいではないぞッ」
周宜が憤慨の声を上げた。すかさず「ほほほ」と世古が口元に手を当てて身をのけぞらせる。
「稲若が大旦那さまの倅か孫であったら面白いのに。仁木緒さまも上役への文じゃなく、どこかの姫に恋文をお書きなさいな。どうして放蕩者のお父上に似なかったのかしら? 何が楽しくて仕事仕事なんだか」
どう反応していいのか分からず、稲若は目を泳がせている。杣信と同じく聞こえないふりをしながら、仁木緒は自室へと引き上げた。
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