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平安時代の貴公子とその周辺 藤原道雅

 
 今はただ 思ひ絶えなん とばかりを 人づてならで 言ふよしもがな
 
 小倉百人一首にも採用された歌人・藤原道雅。
 藤原伊周(これちか)の息子です。
 ごく幼少のころは「松君」と呼ばれ、清少納言をはじめとして祖父の道隆、中宮定子たちから「蝶よ花よ♪」「この子が一条帝と定子中宮の子であればいいのに」などと溺愛の渦中にいました。
 父と叔父・隆家、そして叔母の中宮定子が失脚したのは四歳のとき。
 恩赦で父が京へ戻って来ても廟堂にはなかなか復帰できず、多感な少年時代をおそらくは「本当ならば関白となり廟堂の権勢を握っていたわたしなのだ」と父の愚痴を聞いて成長したかと思われます。
 身分を回復したとはいえ、廟堂で伊周を個人的に苦手とする公卿たちは多かったらしいです。以下、そのエピソード↓
 踏歌節会(とうかのせちえ)では「伊周が参入して外弁に着いたところ、諸卿は座を立って礼をした」(御堂関白記)のはよかったものの、筆頭大納言(道綱)は「病気なので退出します」そそくさと退出。
 道綱とは異母兄弟の御堂関白・藤原道長がなだめても大納言級の公卿たちは伊周と同席を嫌って、一人も戻ってこないありさま。
 廟堂では公卿たちが出席することに神経を使う道長ですが、道長本人も伊周とは面談を避ける状況でした。
 
 道雅はこういう父の不遇を見て育ちます。
 「所掌(しょしょう)右少将道雅、失錯多し」(小右記)
 十月の弓場始のことを非難されているということは、あまり弓は得意ではなかったようです。
 じゃあ、父の不運を悲しみ、詩歌を愛する穏やかな貴公子だった?
 いえいえ、ライバルは三条帝の皇太子・敦明(あつあきら)親王。別名・小一条院。
 ちょっと複雑な暴力事件を起こしています。
 被害者は織部司の挑文師(あやとりし)小野為明(おののためあきら)
 為明は敦明(あつあきら)親王の身の回りの世話をする雑色長(ぞうしきのおさ)です。
 長和二年(一〇一三)道雅は東宮・敦成(あつひら)親王(のちの後一条帝)の小舎人に「為明を誘拐しろ」と命じます。拉致させて自邸に連れ込んだ小野為明の髪を道雅は自分でつかみ上げます。そうして動けなくした小野為明を、従者たちに殴る蹴るの暴行を命じました。
 その結果、小野為明は半死半生に。
 自分の雑色長を暴行されたことを、敦明(あつあきら)親王(小一条院)は父・三条帝に訴えます。
 道雅は謹慎処分に。
 被害者の怪我の回復は? 拉致実行犯の小舎人たちは?
 気になる事件ですが、それは見当たりません。
 それとは別に、ここで奇妙に思うのは、
 なぜ道雅は敦明(あつあきら)親王の従者・小野為明を選んだのか?
 そして拉致を自分の従者ではなく、東宮の従者に命じたのか?
 当時、三条帝と道長との軋轢で、廟堂が二つに分断されていました。「三条帝派」と「道長派」に。道雅はそのどちらにも属していません。
 ここで道雅の性格を考えると……どうも自暴自棄で切れやすい反面、自己保身の計算高い陰険さを感じてしまいます。
「道長の娘・彰子が産んだ東宮・敦成(あつひら)親王の従者を使って暴行事件を起こせば、きっと廟堂の分断がすすんで政治は混乱する。多少おれが手を下したとしても、大した罪に問われるわけはない。中関白家の直系として、本当なら権力の頂点を極めていたはずのおれなのだからな」
 斜に構えたニヒリズムも傲慢も、二十歳そこそこの道雅の心にあったかもしれません。
 その三年後(長和五年 一〇一六)、従三位に叙せられますが、在任八日目で蔵人頭を更迭されます。何か不手際があったのか、怠惰だったのか? 暴言でも吐いたのか?
 九月、三条帝の愛娘・当子内親王と密通。
 当子内親王は伊勢の斎宮職を終了し、京へもどったばかりでした。
「当子の世間知らずにつけ入って、たかが三位の男が、しかも蔵人も勤まらず暴力事件を起こしたしょーもないヤツに娘はやれぬ! というより、臣下は皇女を娶ることなど許されておらぬのだ!」
 パパ三条帝、当然の激怒です。
 そのとき道雅が詠んだ和歌が、
 今はただ 思ひ絶えなん とばかりを 人づてならで 言ふよしもがな
 和歌は素晴らしい出来ですが、恋は不首尾でした。当子内親王は生母のもとに幽閉され、出家します。
 
 道雅は果たして、当子内親王を本当に愛していたのでしょうか?
 悲恋の和歌を詠んでいるのだから、その内容からすると純愛のような気もします。
 でも、道雅の行動パターンからすると、なんとなく斎宮であったピュアな当子内親王をもてあそぶことで「傲慢な自己保身」と「三条帝と敦明(あつあきら)親王へのいやがらせ」が成立できると判断して「偽りの恋」を語った可能性も……。
 その後も、道雅の周囲では事件が絶えません。
 万寿元年(一〇二四)十二月の強盗殺人事件は公家社会を震撼させました。
 そのころすでに道長の娘・彰子は上東門院と名を改めています。かつて十二歳で一条帝のもとへ入内した彰子は「大女院」とも尊称され、内裏を取り仕切る女丈夫ぶり。
 上東門院の側に仕える女房の一人に、花山法王が出家したあとに生ませた皇女(名前不詳)がいました。
 花山法王の移り気な恋愛遍歴の果てに誕生した皇女は、生まれてすぐに「兵部」という女房に里子に出されたらしく、この「兵部の養女」が成長して上東門院彰子のもとへ出仕していたわけです。
 なので、とりあえず被害女性を「兵部の養女」としておきます。
 王朝文化の担い手・女房ですが「上流階級の公家の姫が女房として出仕するべきではない」という不文律があります。それでも「兵部の養女」は上東門院のもとで女房勤め。父親が花山法王とはいえ、きっと仕事をしないと生活できない状況だったのでしょう。
 悲劇は上東門院の邸に強盗が入ったこと。
 そして「兵部の養女」が拉致されたらしいこと。
 更に彼女が上東門院の御所の前の路上で殺され、野良犬の餌食になったこと。
 被害者女性「兵部の養女」の着物がわずかに残っていたため、身元が判明したものの、遺骸の損傷ははなはだしかったと想像できます。
 小右記の筆者、藤原実資は事件の当初から「これは盗人の仕業ではない。誰かが皇女を御所の外に誘い出して殺したのだ」という人々の言葉を記録。
 翌年三月、「兵部の養女」殺害犯人が検非違使・平時通(ときみち)によって捕縛。
 それは隆範(りゅうはん)という僧形の男でした。
 拷問を受けた隆範(りゅうはん)が七月になってやっと口を割ります。
「三位中将藤原道雅に命じられた!」
 その三日後、「兵部の養女」を殺害した強盗の首領という人物が(名前不明)登場。
「僧の隆範も道雅さまも無関係。すべてはわしがやったこと」
 あまりに不自然な自首と自供に、検非違使は「真実を明らかにするために拷問するべきだろうか」と悩みます。相談を受けた実資は「自首してきた者を拷問した前例はない」として拷問は実行させません。
 そして事件は幕引きに。
「結局、道雅どのは黒幕ではなかった。言い寄っていた女房「兵部の養女」に道雅どのは失恋し、その「兵部の養女」が路上に誘い出されて殺されて野良犬に食われただけ」
「失恋の腹いせに強盗に見せかけて女房を拉致し、殺害を実行させるなど、公家社会の一員にそんな犯罪者がいるはずがない」
 といった公式発表のあと、道雅は唐突に
「左近衛中将を解任。右京権大夫(うきょうごんのだいぶ)に格下げ」
 右京の行政を取り仕切る右京職(うきょうしき)の長官に准ずる官職ですが、実際は権限も何もない閑職。しかも四位や五位の位階の中級貴族が就くべき右京権大夫(うきょうごんのだいぶ)で、「従三位」の道雅が就任するというのは前代未聞。
 父・伊周や叔父・隆家も花山法王に矢を射かけて失脚していますが、のちに身分を回復しています。
「兵部の養女」殺人事件の黒幕として「名前が挙がっただけのはず」の道雅はしかし、この事件以降、一生返り咲くことはありませんでした。

 この事件の顛末と、仏師の世界にからめた名作があります。

 こちらでは悲劇的だけど、カッコイイ藤原道雅に出会えます。
 ご興味があれば、ぜひご一読ください。m(__)m

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