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検非違使別件 四 ⑧

「官舎がある皇嘉門内から陽明門外の検非違使庁へご足労とは、よほどのことでありましょうな。先ぶれがあったとはいえ、まさかご本人がいまここにいらっしゃるとは信じがたい思いです」
 権限のほとんどを検非違使庁に奪われ、すでに形骸化している刑部省だが、それゆえに検非違使に対する遺恨は深い。
 仁木緒は背筋に冷たい汗を感じた。
 刑部省がもし、荒彦と能原門継が入れ替わって儀式にのぞんだことを察知したとすれば、別当の責任問題として廟堂で取り上げられかねない。つまり、源経成の失脚の材料にされてしまう。
(そうか。このお方がいらっしゃると知って、いまここに佐の隆方さま、尉の有綱さま、志、府生の方々を集結したというわけか)
 検非違使が集まっている場に招じ入れ、刑部省の役人を心理的にけん制しつつ、儀式について相手がどのくらい知っているのかを探ろうという肚らしい。
(しかも本来なら、獄舎の管理は刑部省の管轄。だからこそ、看督長らが連名で提出した解文を読み上げ、獄舎の老朽化をわざわざ聞かせた……)
 用意周到なものだ……と上役たちの駆け引きをそれとなく察したものの、だからといって、刑部省の役人がどれほど腰を入れて働くものか、仁木緒は信用できない気分だった。
 いまは背中しか見えないが、曹司に入ったときの錦景時の横顔は青白くむくんでいた。香を焚きしめた上質な絹の直衣をまとっているが、黒光りする脇息に身をもたれかけている錦景時のさまは、対峙する源経成の精悍さを際立たせている。
「普段、裁定や刑罰権のほとんどを刑部省から奪っている検非違使庁に足を運んでみたら……身分卑しい下部の者たちの解文を読み上げているとは無粋のかぎり」
 物憂そうに錦景時が鼻を鳴らす。案の定、右獄再建と獄舎老朽化問題については聞かなかったことにするつもりらしい。
「我が邸門前にて、儀式は滞りなく終了したはず。それをどういうわけで不穏なウワサがある、などとおっしゃるのでしょう。解文の内容を立ち聞きされたようなので、ここでは繰り返しませぬが、この一件こそ刑部省から朝議にかけるべきではありませんか?」
「人の言葉尻をとらえるとは憎いこと……。それに立ち聞きなど恥ずかしいことはいたしませぬよ」
 女のようなしなをつくり、袖で指先を隠した手を口元に当てて錦景時が含み笑いした。
「それより、どういうウワサになっているのか気がかりではありませぬか? 峻厳実直な検非違使別当・源経成さまともあろうお方が、よりによって囚人を入れ替えたらしゅうとのこと」
 仁木緒は背筋が凍った。やはり、この貴人は荒彦と能原門継の一件を知っているのだ。
 だとしたら、誰が、いつ?
 検非違使の権威に関わる重大事を刑部省にもらしたのか?
「囚人過状で読み上げるべき罪状と犯人の名前を、取り違えただけとは思えませぬ。どちらにしても、源経成さまは下部の者たちのしつけをどうなさっていることやら。……ほほ、飼い犬に手を噛まれるとはこのことかもしれませぬな。そのような不始末をおかしながら、位階の昇進、中納言への野心で胸を焦がしているとは、荒別当と異名をとる経成さまらしゅうもないご失態でいらっしゃる……」
「その件につきまして」
 錦景時の皮肉たっぷりな言葉を佐の藤原隆方がさえぎった。
「どういう筋からお聞きになったのでございましょうや」
「さて、風の便りとでも申しておきましょう」
「では、人にあらざる者の口がお聞かせした……というわけですな。つまり物の怪のしわざ」
「物の怪など……」
「いえいえ、ここ検非違使庁は血や騒乱といったケガレを清めることを職務としている役所。当然、ケガレを好む物の怪も集まりましょう。ありもせぬ話をまことしやかに耳打ちする物の怪があぶくのごとく現れては消えたとしても、不思議ではありませぬ」
 むっと眉間をくもらせた錦景時があごを引く。藤原隆方をにらみすえた。
「では、囚人の身代わり……入れ替えなど、実際にはなかったと?」
「当然です」
 胸を張る藤原隆方と重々しくうなずく源経成を認め、錦景時が鼻白む。首をねじって初めて広縁に控える仁木緒と紀成房を振り返った。
「そこにいる下部の者は……儀式で囚人を入れ替えたゆえ、ここで叱責されているのではなかったのか」
「叱責などではありませぬ」
 今度は尉の藤原有綱がさらりと言ってのける。
「獄舎の老朽化に関する解文を差し出した件で、ここにいるのでございます」
「だが」肩をそびやかし、錦景時が未練がましく蒸し返した。「ウワサによれば、前陸奥守の邸にて狼藉を働いた荒彦と申す少年が、別の賊にすり替わっていたという」
「押し問答はよしましょう。そのような事実はありませぬ」
 源経成が打ち切ろうとするが、粘着質な性格なのか自分がつかんだ情報に自信があるのか、錦景時は皮肉をやめなかった。
「人を斬って金品を盗んだとすれば、律令法第七の賊盗律の刑罰規定で死罪になるところが……検非違使庁では寛大に刑罰を決める昨今じゃ。その荒彦という者が、どうやら脱獄したとウワサになっておるのですぞ。……ま、死罪でなければ、どうせ遠流であろうが……」
 錦景時の言葉は、まるで検非違使が刑罰権を私物化し、罪状に忖度をくわえて寛大な求刑をしているかのようなふくみがあった。
「お言葉ですが、錦どの」
 脇息によりかかっている刑部省の役人に、源経成が穏やかに片手を挙げた。
「そこにいる看督長らが死力を尽くして太刀を振るい、矢を浴びせなければ捕らえられぬ罪人を儀式の場ですり替えるなどあり得ましょうか? 乱闘のおり怪我を負う者、命を落とす者もおり、獄中から罪人が逃亡すれば責任を問われかねぬ下部の者がおればこそ、検非違使の権威が守られているのです」
「なにが言いたいのじゃ」
 青白くむくんだ顔が源経成に向き直る。源経成は続けた。
「刑部省に修繕申請をしている獄舎のあちこちが破損していることは、錦どのもよくご存じのはず。もしも荒彦が脱獄したとしたら、その責を取るべきは本当なら刑部省の獄囚司であると肝に銘じていただきたい」
「な、なにを申すか」
 錦景時の声が高くひきつれ、直衣の袖口からのぞく拳が震えた。
「もしも荒彦が脱獄していたとしたら……と申したのです」
 源経成が強くくりかえした。
「……では、脱獄などなかったと? だが、あの者はしかと……」
「あの者とは?」
 たたみこまれ、錦景時はぐっと口をつぐむ。視線をそらして脇息のへりを撫でさする。その間にも、源経成は容赦がなかった。
「検非違使庁で帝へ罪人の死刑を求刑しても、立春(一月半ば)から秋分(八月はじめ)までは死刑の奏上はできぬ律(刑法)の決まり。秋分が過ぎましたら、改めて刑部省に申し入れましょう。荒彦の死罪を。……そのときには、ぜひ死罪の求刑を帝に奏上していただきたく存じます」
 耳にするなり錦景時の口元に嘲笑が浮いた。
「ほ、我ら刑部省から死罪を奏上したとて、お情け深い帝は減刑をお決めになられるであろう。届けなど無意味なことじゃ。そういう手間をはぶくために死罪求刑をせず、検非違使にて流刑に処すのであろうが」
「おお、ご存じでありましたか」
 やや芝居がかった源経成の驚き方だった。皮肉と流言で検非違使庁をおとしめる陰湿な相手への揶揄に満ちていた。
「では、いま一度、繰り返します。本来なら刑部省が管理する獄舎が破られた……としたら検非違使ではなく刑部省の恥。その恥にも気づかず、廟堂内には検非違使別当であるわたしを中傷する輩がひそんでいるらしゅうございますな……。その者はどうやら、検非違使庁の権威が失墜するのを望んでいる様子。まったく嘆かわしい。どうぞそのような不届き者らの片棒をかつぐことなどないようにお願いいたします」
「別当さま」
 にらみあう源経成と錦景時の間で、藤原有綱が片袖をはらはらと振った。
「儀式の様子と脱獄を許したかどうかの真偽をただすために、ここに看督長二名を呼びつけております。まずはわたしから下問いたしますが、よろしいでしょうか」
 その言葉に「うむ」と源経成がうなずく。藤原有綱が広縁にいる仁木緒と紀成房に体を向けた。
「佐伯仁木緒。その方、荒彦はいかな外見の男であるか、ここで申してみよ」
 真実を告げてはならない。すでに仁木緒は全てを察していた。
「巨漢でございます。人相は額にほくろが三つ。髭が濃い男でございます」
 能原門継の外見を告げる。隣で紀成房が困惑していたが、顔を伏せて反応を誰にも悟らせなかった。
「では、本日の儀式で荒彦がいたかどうか、覚えておろう?」
 さすがにゴクリとのどを鳴らした。仁木緒は肺に空気を入れた。
 刑部省の役人は検非違使庁をよく思ってはいない。当然だ。司法、刑罰権、獄舎の運営といった刑部省が受け持つはずのあらゆる職掌、権利を奪われているのだから。
 検非違使別当(長官)の失点になりそうなことが持ち上がると、それこそ針小棒大に取り沙汰し、失脚させようと影で暗躍する。かといって検非違使別当が更迭されれば刑部省に権利が回復されることはない。とにかく検非違使庁に傷がつけばそれだけ陰険な喜びに胸が満たされ、留飲をさげることができるだけである。
 いま廟堂では中納言が空席だと聞く。源経成は検非違使別当の働きを認めてもらい、その席への昇進を願っているのだ。
 とりあえず刑部省としては源経成の昇進を邪魔し、日ごろの鬱憤を晴らそうと画策する気配があるらしい。
(だから、荒彦は脱獄などしていない、儀式にのぞんだ囚人は能原門継ではなく荒彦であったとおれたちに証言させ、検非違使庁の権威を取り繕おうというわけだ。庁のため、目の前の刑部省大輔さまを煙に巻いておかねばならない……)
 おのれの失態など、そこでは問題ではない。
「申し上げます」
 改めて仁木緒は平伏した。こうした付け焼刃なごまかしが、どれほど有効なのか疑いながら。
「確かに荒彦に足枷をつけました。着鈦の政は検非違使庁の威信にかけて、つつがなく執り行われました」
 真実でも本意でもないこと申し立てると、背中に汗が流れるらしい。仁木緒はいやな湿りを背筋に感じながら、荒彦とあの舞姫を見つけなくては……と決意を新たにした。
「足枷をつけ終わった囚人たちの列で争いが起こったというのは」
 あくまで源経成の失点をあげつらいたいらしい。錦景時が高い声をあげる。かしこまった姿勢で仁木緒は言葉を続けた。
「石見丸と申す囚人が子どもをかばい、囚人同士で争いになったのです。そのために一時、列が滞りました。しかし、幸い見物人には怪我人も出ず、無事に獄舎へ囚人らを収容できました」
 その石見丸は能原門継に刺殺されたのだ。またしても背中に冷たい汗がわく。
「囚人を獄に戻すまでが儀式……とはいえ、殺人や窃盗など小さな犯罪のみを扱う検非違使にしては、仰々しい儀式であるな。我が刑部省ではもっと大きな誣告ぶこく事件などを扱うがのぅ」
「そういう誣告事件の証拠固め、容疑者の邸への大索おおあなぐり(大捜索)なども、我ら検非違使庁で扱っている実態をご存じでありましょうな」
 源経成がすかさず錦景時の皮肉に声にかぶせた。
「とにかく、儀式はつつがなく執り行うことができたとご納得いただけましたかな」
 鋭く底光りするまなざしで錦景時を一瞥する。
「刑部省の錦さまがご退出なさる。お見送りせよ」
 藤原有綱が声を大きくすると、真っ先に仁木緒が曹司へ突進した。
「な、なにを……」
 唐突に右腕を仁木緒につかまれ、左腕を紀成房に取られた錦景時が狼狽する。
 文字通り廊下のはしまでそのまま引きずった。錦景時が扇を落とす。それを秋篠綾夫が拾い上げ、あとに続く。
 検非違使庁の式台へ出た。あわただしくくつを履かせると、そのまま敷石を踏んで門まで突き出した。
 錦の従者と思われる男たちがそこに控えていたが、唖然とするばかりで「無礼者」と怒鳴ったのはただ一人だけだった。
「我らが主に何をするッ」
 衣の袖をまくり上げ、歯をむき出しにして怒鳴りつけてきた。額がせまく、頬骨が高い。小さな目に獣性を感じさせる不快な男だった。仁木緒も負けていなかった。噛みつくようにまくしたてる。
「ご退出の案内をいたしました。錦さまには職掌についてのご教示をたまわり、まことに勉強になりましたので、厚く御礼を申し上げます」
「貴様、何者だ」
「そちらから名乗るのが筋ですが、争っていても仕方がない。わたしは看督長の佐伯仁木緒」
「わしは錦行連にしきのゆきつら。錦景時さまとは同族であり、景時さまの護衛をしている。おぬしのようなケガレた職務についている者が我が主に手をかけるなど、あってならぬこと」
「お言葉を返すようですが」
 錦行連に対し、仁木緒もケンカ腰である。お互いあごを引いて相手をうかがった。
「刑部省も検非違使庁と同じく罪人を扱う職であると心得ます。検非違使下部のわたしどもをおとしめるお言葉は謹んでいただく」
「生意気な……ッ」
 はじかれたように後ろに飛び下がり、太刀の柄に手をかける。間髪入れず仁木緒は前に出て、その手首を押さえた。錦行連にしきのゆきつらとにらみ合う。低くささやいた。
「ここで抜かせるおれだと思うなよ」
「……うぬッ」
 力で押し切って太刀を引き抜こうとする。が、仁木緒に押さえつけられた手首が震えるばかりだった。
「やめよ、行連。無駄足だったわい」
 築地塀のところで扇をうやうやしく捧げられた錦景時が、直衣の乱れをつくろいながら鼻を鳴らして扇をひったくった。
 錦行連の全身から強張りが解ける。仁木緒は錦行連の手首を放した。お互い間合いをはかるようにして一歩退いた。視線は一瞬も相手からはずさない。
「いずれ事の次第が明らかになるであろう」
 いまいまし気に肩をそびやかす錦景時の言葉が、帰還を告げる合図となった。従者たちにかしずかれて背を向けた。刑部省の役人たちが白い砂地に沓跡を残して遠ざかる。他の男たちは一度も振り返らなかったが、錦行連だけは首をねじって仁木緒へきつい視線を投げた。
「やれやれ……」
 庁の門扉をくぐると、白い砂利の上に藤原有綱が立っていた。仁木緒、紀成房と秋篠綾夫たち三人に口を開いた。
「客人もお帰りになった。……して、客人が置き土産のウワサについては、これより別件として申し伝えることがある」
「別件? それは……」
 紀成房がひそやかな足取りで藤原有綱に近づいた。
「獄舎再建要求の解文でしょうか。それとももう一通の?」
「ばかもの。獄舎については刑部省にいまの形で申し伝えたのだ。正式な手続きでは一度として動かぬゆえな。当然、もう一つの案件の方じゃ」
 素早く藤原有綱が目くばせすると、秋篠綾夫がそそくさと去っていった。 
 仁木緒と紀成房が残された。二人は地面に片膝をついてこうべを垂れた。
「看督長・佐伯仁木緒、紀成房……石川彦虫の三人の名で届けだされた解文だが、石川彦虫はおらぬゆえ、いまおぬしら二人に申し伝える」
「はっ」
「本日提出した解文の内容はこれより外部にもれてはならぬ。ゆえにいまごろは灰となっているであろう。だが、おぬしらの失態が不問に伏されたわけではない」
 一度言葉を切ると、腰をかがめて藤原有綱がぐっと顔をのぞきこんできた。低い声ながら、厳しい音声が耳朶を打つ。
「儀式にのぞませるべき囚人の脱獄を許し、あろうことかその身代わりに別人を立てるなど言語道断。不遜の極みである!」
 仁木緒はますます頭を下げた。
 叱責を源経成からあの場で受けなかったのは、刑部省の役人がいたためだ。おのれの失態が帳消しになったと考えるほど甘くはない。隣で紀成房もかしこまって肩を落としている。
「連名で届けたというのに、なにゆえここに石川彦虫がおらぬ」
「探したのですが、あいにく居所がつかめませぬ」
 仁木緒の返答に、藤原有綱は苦々しく鼻孔から強く息を吐く。
「気に入らぬ……。石川彦虫を見つけ次第縄を打ち、わしのもとへ連れて参れ。勤務怠慢でわし自ら杖で打ち据える。そしておぬしら二人には、脱獄囚荒彦の追跡と捕縛を命じる。この検非違使別件について、庁の威信がかかっていると肝に銘じてつとめるがよい」

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