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平安時代の貴公子とその周辺  藤原伊周(これちか)について

来年2024年の大河ドラマは平安時代。
エブリスタに投降しているエッセイから抜粋し、こちらにも寄稿いたします。
アマゾンセルフ出版いたしました拙作「あぐり 長徳の変を見つめた少女」にも登場する貴公子たちです。

 大河ドラマのヒロイン・紫式部と彼女の「ソウルメイト」御堂関白・藤原道長ですが、彼らのライバルとして周囲を彩るのは中関白家(なかのかんぱくけ)の一族。
 
 中関白家とは「藤原道隆」を頂点にして、
  一条帝の中宮(皇后)で枕草子に多大な影響をあたえた「藤原定子」
 その兄で若くして内大臣をつとめた「伊周」
 そして弟の「隆家」です。
 
 実は、個人的に「平安公家ってあんまり好きじゃない」タイプです。
 枕草子も源氏物語も「現代語訳」で一通り読みはしましたが、その世界にどっぷりつかることはありませんでした。
 神頼みとか呪詛とか、その他にも物忌みや陰陽師の占いに日々を振り回されている平安貴族。
きらびやかな衣装、趣味は優雅で雅やか。なのに裏ではデマを飛ばして政敵を失脚させる陰湿などろどろの印象があって……(;^_^A
 
 それでも、
 平安時代の庶民はどういう生活をしていたのだろう?
 なぜ藤原定子は失脚したのだろう?
 平安時代に大陸から侵攻してきた「刀伊」って何者?
 などといった疑問から、初稿の「あぐり」を書き始めました。自分で書いてみれば頭の中が整理できるはず……という短絡的な動機です。
 余談ですが、この初稿版は一度エブリスタに投稿したのち、集英社のノベル大賞に応募いたしました。結果は三次敗退。
こちらは一月末の応募締め切りで九月に入ってメールで選評をいただきました。その内容は「公開はご遠慮ください」とのこと。
 当たり障りのない程度で明かしますと……(いいのかな? どきどき)その時点の選評では「後半が駆け足(はしょりすぎ)」「主人公同士の恋愛描写が希薄」と本人でも思い当たることがあれこれと。(;^_^A
「ヒロインや読者を振り回すくらいの物語にしたほうがいいですよ」
 というアドバイスもいただきました。選評、大事ですね。ありがとうございます。m(__)m
  確かに。そうなのです。
 ことに後半の刀伊の入寇については当時、ほとんど研究書が手に入らず、さらっと書き流してしまったものです。
 今回、ようやく「刀伊の入寇」について調べることができ、本腰を入れることができました。
 そして定子の兄弟である伊周と隆家についても。

  藤原伊周。道隆の嫡男でかなりの秀才です。いとこである一条帝に漢籍の講義をした「最初の家庭教師」だったこともあります。
 女官たちからはミーハー的な人気があったらしく、清少納言からは「これほどの貴公子がほかにあろうか。いるはずがない!」と大絶賛されているイケメン。
 清少納言のライバルとされる紫式部が執筆した「源氏物語」の主人公・光源氏は伊周がモデルだという説があります。
 貴種でありながら政争に破れて流刑に処され、京へ戻って来て政権を掌握する光源氏。
 伊周もまた、失脚して京を追われます。貴公子が不運にみまわれるところは共通していますね。
 ただし、これは女性からの視線。
 同性の、しかも同じ仕事場(朝廷の会議・儀式の場)の仲間たちにとって伊周はどう思われていたのでしょう?
 たとえば伊周は
「正月の白馬節会における叙位で、位を与えられた者は拝舞をするべきではない」
 と主張しています。
 拝舞についてはあまり知られていないようですが、当時の公家たちはよく舞を舞ったのです。官位を上げてもらったり、お祝があったりすると嬉しさと感謝を全身で表すために。
「舞わずに再拝でよろしい」
「いや、舞うべきでしょう」
 他の公家たちがざわめくのを、当時の右大臣・源重信が「伊周どのの言葉に従いましょう」と取り成したという一幕があります。
 たかが「舞一つ」であっても儀式と政(まつりごと)が一体化した朝廷では、かなり紛糾したようです。「小右記」の筆者・藤原実資(さねすけ)が帰宅してから「内裏式」「儀式」「延喜後日記」といった文書を確認して
「なんだよ! やっぱり拝舞が必要じゃん!」
 と憤慨しています。
 他にも御斎会(ごせいえ)の御前会議のあと、賜禄(しろく)の儀のときも長押の下にひざまずくことはせずに伊周は賜禄(しろく)を取るという「簡略化」です。
 これには父親の道隆も「いまだ善悪を知らぬ。ひざまずくという動作は書物にないことだが、やはり礼儀に反していると言わねばならないだろう」と嘆いています。
 当時、伊周はわずか十七、八歳。
 周囲の公卿たちの年齢は十以上年上であろうかと思われます。しかも出世で抜かされています。
「あんな若造に何がわかる! 傲慢な」
「父親の権威をかさに着て!」
 という反発や反感を伊周に向けていたと想像できます。
 他の公卿たちと伊周は対決姿勢を貫きます。自分の学識をひけらかして論破することもあったのではないでしょうか? 一緒に仕事をするとしたら、ちょっと嫌な「年下の上役」ですね。
 正月の内宴では、大臣に混じって座っていた伊周を父親の道隆が「大納言は事情がないかぎり、長押の上に昇ってはいけない」とたしなめて退去させています。
 四月の加茂の祭りの飾馬御覧では、紫宸殿の一条帝の御前に伊周だけが伺候。
「図々しいな、あいつ」
「道隆どのの後継者として大きな態度をしやがる」
 雅やかな公家ですからこういう暴言は吐かなかったでしょうが、伊周に対する悪感情はふくらんでいったかと思われます。
 その当時、道隆は少年の一条帝が生母・詮子のもとへ行幸のさいに「笛をお吹きください」と笛を吹かせたとか。
 帝に笛を吹かせたことも、行幸という天皇が出かけるイベントを「一条帝の外祖母の忌月」にぶつけたことも、公家社会では「如何なものだろう」(小右記)と眉をひそめることでした。
 要するに、中関白家は公家社会から「浮いていた」ようです。
 ちなみにこの行幸のとき、伊周の弟・隆家についても「小右記」にあります。
「一条帝を乗せた輿が内裏へ帰るとき、前相模守・藤原典雅が馬に乗って右近の陣を破って馳せ渡った。隆家が捕らえからめて、すぐに看督使(かどのつかい)に下した」
 右近の陣、というのはなんでしょう? たぶん「輿の行列の右側」ではないか思われます。帝の行列の一部をくずして、行く手をさえぎって逃げようとした……というほどの意味かと思います。
 看督使(かどのつかい)? 検非違使じゃないの?
 勉強不足のため分からないことは多々ありますが、文字の雰囲気からそのときの様子を想像するのは楽しいです。
 相手は馬に乗っていたのだから、当時十四、五歳だった隆家も騎乗して追いかけたのでしょうね。少年の隆家に捕まえられて縛り上げられた前相模守・藤原典雅。もしかしたら酔っぱらっていたのかも(笑)
 
 とりあえず、伊周さま。
 相撲節会(すまいのせちえ)で負傷を申請した相撲人・昌延に「相撲を続行せよ!」と命じて他の公卿たちが「相撲は手を使う競技だから、退出させましょう」と多数決で退けられたりしています。
 このころになると水面下で、「伊周どのの意見には必ずノーね」とみんなで申し合わせる空気ができあがっていたのかもしれません。
 それにしても不思議なのは、伊周に「反省」も「自重」をないことです。
 父・道隆の病が重篤になったとき伊周は関白の補佐的な「内覧」という役職についています。それだけでもすごいと個人的には思うですが、伊周は
(次にわたしが関白になる布石を打っておかねば)
 という焦りから、
「一条帝! わたしに関白の随身兵仗をつけさせてください!」
 と激しく迫ったりしています。
 随身兵仗というのはどうやら、父親が内裏へ向かうとき「関白の行列であるぞ」と一目でわかるような威儀を整えるボディガードたちと考えられます。
 一条帝はいとこだし、妹の夫。つまり義弟だからこれくらい許可してくれたっていいよね?
 そんな気安さと自分への自信・野心に目がくらんで、周囲の感情にまったく気づかない、気づこうとしないウカツさ……。
 一条帝は「内覧は道隆どのの病中のことだし、関白のボディガードをつけて行列をつくるのはダメだよ。なんといっても前例がないから」と伊周の要求を撥ねつけます。
 このやりとりはかなり伊周が感情的で、一条帝もなだめるのに苦労したようです。
 
 藤原伊周……。生まれも育ちも良く、裕福でルックスも趣味もよくて才にあふれ、女官たちと陽気に交流しているのに、なぜこんなにガツガツと出世欲が強いの?
 もしや、儀式の簡略化を目指す革命家だった?
 それとも新しい政治をするビジョンを実現したくて若気のいたりで焦っていた?
 
 枕草子に登場する「さわやかイケメン系」の藤原伊周と、公卿たちを向こうに回して高慢に振舞う「おれさま系の伊周」
 一人の人物像をそれぞれ別の角度から見ると「まったく別人」のように思えるのが興味深いです。
 伊周がもっと「大人」であれば中関白家の繁栄は続き、叔父の道長は歴史の脚光を浴びなかった可能性があります。
 それにしても、どんなにルックスがよい貴公子でも、仕事場での輝きが「親の七光り」ではダメという一例になってしまうところが、藤原伊周の悲しみの原点のような気がします。







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