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明治の女流作家 田沢稲船(未完の文豪)

 田沢稲船 (たざわ いなふね) ……うーん、この人になぜ興味を持ったのか? と問われれば
「わたしにも、なぜなのか分かりません」
 と首をかしげるしかありません。この「なぜだろう?」という疑問を整理するため、ここにまとめたいと思います。
 
 きっかけはやはり樋口一葉。一葉の落書き(? 明治二十七年から八年の下書きの余白)で
 
 いな舟 かのぬし参られそうろうとても 田沢 田沢 田沢 稲船 稲船
 
 という記述の資料があると知ったためです。
 この「参られそうろう」の部分が、「羨て候(うらやみてそうろう)」と誤読されてきたため、一時は
「半井桃水を小説の師匠として敬愛していた一葉の恋は破局したが、同世代の稲船は大恋愛の末に自分の小説の師である山田美妙と結婚した。きっと一葉は羨ましかったのだろう」
「自分の作風とはまったく逆の稲船の才能について、羨んでいる」
 といった解釈がされてきました。
 一葉が達筆すぎたせいで誤読されてきたというわけです。
おそらくは「たけくらべ」連載をしている先輩作家のところへ、稲船が訪問したのだと解釈しなおされています。結婚の挨拶かたがた、創作をしてゆく上での心得のようなものをさとしてもらうために。
 
 田沢稲船。「いなふね」はペンネーム(雅号)で本名は田沢錦(きん) 戸籍ではなぜか「銀」になっているとか。
 出身は山形県鶴岡。父は外科医。母は銭湯を経営し、株価相場に機敏な事業家肌の女性。
二人姉妹の長女で絵画も描き、小説だけでなく、浄瑠璃も創作! という才女。
写真でもお分かりのように、かなりの美貌です。

もっとも、十四歳で入り婿をとらされ、家を継ぐことを宿命づけられました。十五歳で離縁すると、再び別の男性を入り婿としてあてがわれ……。
 東北の明治時代です。鶴岡が豊かな土地だったとしても現代では考えられないほど、「子は親に従え! 女ならばなおさら!」という強権的な家風だったのでしょう。
 習作「鏡花禄」には「どうしても一生夫をもたずに独立しようとかたく心に誓った」「何か一つ、一生食べていくだけのわざを身に着けなければ」と記してあるそうです。
 十六歳で尋常小学校高等科を卒業。友だちの医者の娘・新藤孝(たか)が女医を目指して東京へ行ったことに刺激されます。
「わたしも女医になる!」
 と両親を説得して上京。
 かといって本心から医師を目指していたわけではないため、挫折します。
 鶴岡に連れ戻されたものの、入り婿と離縁。
「今度は画家を目指す。美術学校に再入学させて」
と交渉します。
「二度も婿養子を離縁したことで、近所の外聞が悪いからほとぼりがさめるまで他所にやっておこう……」という親の思惑も手伝ったのかもしれません。稲船は再び上京します。
 画家の修行はどうだったのかは不明ですが、十八歳で「婦女雑誌 創刊記念懸賞」に応募して散文が当選。
そのころ人気作家だった
「山田美妙(やまだびみょう)」
 と出会います。
山田美妙。「言文一致体の祖」であり「東洋のシェイクスピア」とあだ名された男。
 しゃべり言葉と書き言葉を統一した文体で小説を書いた最初の人で、ベストセラー作家です。
 当時の文壇は江戸時代の流れをそのまま受けて「書き言葉」と「しゃべり言葉」はまったく別でした。
「金色夜叉」を書いた尾崎紅葉とは幼なじみ。硯の友という意味で命名した「硯友社」のメンバー。
 樋口一葉が平安王朝風の「擬古文」で小説を書いていたのですが、庶民はそういう「擬古文」に慣れていて、むしろ擬古文は明治の庶民にも読みやすい文体であったと考えられています。
 言文一致がなぜ必要だったのか?
 おそらくは海外からやってきた外国人教師たちが、生徒を指導するときに混乱したせいかもしれません。たとえば、黒板に書かれた英文を言葉で翻訳したあと、ノートに記述するときは古文調になっては……ねえ?
 山田美妙のデビュー作「武蔵野」は、南北朝時代の関東での悲劇がテーマでした。武士の闘争と滅びの物語。
 山田美妙本人はおっとりとした、争いごとも議論も好まない女好きなタイプで、その性格とは似ても似つかない男っぽい短編に仕上がっています。
田沢稲船と付き合う以前から、人気作家・山田美妙は複数の女性と恋の駆け引きを演じて新聞で取り上げられた挙句、
「小説家は実験を名として不義を行うの権利あるや?」
 坪内逍遥に「早稲田文学」誌上でスキャンダルを批判されます。
 うーん、なにも山田美妙一人が女遊びに精通していたわけではなく、むしろスキャンダルを隠匿できない不器用さが、この批判を招いたようなフシがありますね。坪内逍遥自身、もとは娼妓だった女性と結婚していますし、「金色夜叉」で女性の不実を恨んだ男を描いた尾崎紅葉も花街で遊びまわっていたのですから。「恋のフタマタかけるのは小説を書くための実験さ」とかなんとか雑誌で吐露したために、人としての不誠実をやり玉にあげられた、というわけでしょう。
 ちなみに山田美妙が三歳のとき、父親が実母の妹(美妙にとって叔母)と駆け落ちしています。父親に去られ、母と一緒に桶屋の老婆に引き取られます。桶屋の老婆(義祖母)はかなりがめつい人で「賢い男の子を孫にしておけば、老後は安泰」とばかりに厳しくしつけるのです。
 母と一緒に居候させてもらって、育ててもらったという心の足かせが、美妙を打たれ弱い性格にした可能性がありますね。だからといって、稲船と結婚後も別の女性と付き合うのは不実極まりないと思うのですが。
 ともあれ、美妙と稲船は結婚。
 作品の中で稲船は「自立を目指してあがく女性」をヒロインにすえ、自己投影させているにもかかわらず、山田美妙を伴侶に選んでしまったのはどういうわけでしょう? 愛? 依存? 自尊心を満足させたかったから?
 その結婚生活は最初から多難でした。
 鶴岡の実家に借金させる手紙を下書きし、わざわざ稲船に清書させて、さも稲船が生活に困っているかのように装って山田美妙はお金を無心します。
 美妙の義祖母は稲船を家事でこき使っていた可能性もあります。掃除機も洗濯機もない当時の嫁がどれだけ家事労働に時間を取られるか……。守ってくれるはずの夫はよそに女性がいる、姑は気弱で、義祖母に意見することはできない。
 気が強く才気あふれるお嬢さま育ちの若い女性が、自立したいと願っても結局は「家庭という閉ざされた空間」に放置され、胸を患う。そこには悲劇のにおいしかしません。
 創作したい! という欲求に稲船はどれほど身を焦がしたことでしょう。
 四か月後、結核が重症化した稲船は破局。実家の母親に迎えにきてもらって東京を去ります。
 鶴岡の病床で知ったのは、山田美妙が別の女性とさっそく結婚したことです。それが稲船二十三歳の春。
 その年の明治29年(1896)9月、病没。同じ年に樋口一葉も逝去なさいました。
 田沢稲船。数え年では23歳ですが、現代の計算だと21歳の若さでした。
「もう少し長生きしていれば、よい作品を残したであろうに……」
 逝去の報によせて、稲村の才気を惜しんだ文人が記述しています。
 その後、稲村を捨てた山田美妙は文壇から嫌われて作品発表の場を失います。晩年は辞書の編纂などを手掛けて生涯を終えます。
 おそらく彼は「中途半端に女性に優しいタイプ」で「来るものは拒まず」だったのではないでしょうか? 別離の修羅場を避けてずるずると女性関係をだらしなくし、結局は稲船(妻)に冷酷だった、というイメージです。
 文才があり言文一致を世に問うだけの先見を持ちながら、人としての不実さと弱さから文学そのものを裏切ってしまったのかもしれません。
 
稲船の雅号は「古今和歌集(東歌)読み人知らず」から採用されています。
最上川 のぼれば下る 稲船の いなにはあらず この月ばかり

稲船さんをヒロインにして自作の小説を書きました。機会がありましたら、ご一読いただけると光栄です。m(__)m

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