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平安時代の貴公子とその周辺  藤原隆家(たかいえ)について

 天下のさがな者……とウワサされた貴公子が藤原隆家です。
 さがなは「性悪」「荒くれ」「手に負えない」といった意味。要するに「やんちゃ」だったようです。
 弓の腕もなかなかだったらしく十月の宮中行事「弓場始(ゆみばはじめ)」では
「権中納言がよく射た第一人者であった」(御堂関白記)
「よく射た者の第一は権中納言で、最初の矢を的に当てた」(小右記)
 といった賞賛の記録があります。
 長徳の変で失脚した伊周と隆家兄弟。
 長徳の変。この事件を簡単に書き出すと……花山法王が伊周の妻である「為光の姫」を「寝取った!」と誤解して、伊周が弟・隆家に命じて「為光の邸」を襲撃させたことが発端です。
 兄と弟の暴挙の責任を取り、定子は御所を退出。一条帝は徐目で
 元内大臣の伊周は「太宰府権帥」(九州)
 元中納言の隆家は「出雲権守」(島根)
 と降格処分を決めます。
 当時、畿内は「ウチツクニ」で畿外は「トツクニ(外国)」とされて、貴公子にとって京を追われることは流刑を意味しました。
 兄弟は定子中宮のもとに身を寄せますが、二人が任地(流刑地)へ行かないことに腹を立てた一条帝は検非違使を中宮の御在所へ向かわせます。
 隆家は先に引っ張り出されて網代輿に乗り、しかし伊周は逃亡をくわだてて愛宕山に潜伏。
 中宮の権威を踏みにじられ、発作的に定子は自分で自分の髪の毛を切って「出家」してしまいます。
 そういう「すったもんだ」で中関白家は失墜。道長の長期政権が盤石となるわけです。
 
 兄と違うのは、病気を言い立てて隆家は但馬で逗留し、検非違使の長官だった藤原実資(さねすけ)と文通して廟堂の動きを逐一確かめている点です。
 公卿たちと対決してばかりいた優秀な兄・伊周の行動を知っていた隆家は「兄の轍は踏むまい」と頭のどこかでは分かっていたのかもしれません。こういうところ「お兄ちゃんがお友だちとケンカしたり、パパや先生に注意されたりするのは、お兄ちゃんが強情だったから」という次男ならではの観察眼だったのでしょうか? いわゆる「下の子アルアル」な気がします。
 恩赦の情報も兄・伊周より先に内部情報筋から入手。一方の伊周は無断で京の母のもとに舞い戻っていたことが密告され、ますます一条帝を憤慨させます。
 花山法王を襲撃した実行犯・隆家より主謀者の伊周の方が、反発や恨みを公家社会から買っていました。
 実際、恩赦で京へ召喚されてから、隆家は他の公卿たちと上手く交際していきます。
 特に仲が良かったのは「小右記」の筆者・藤原実資です。
 父親ほども年上で、生真面目な学者肌の官僚とやんちゃ系さがな者のコンビ。この友人関係は実資が亡くなるまで続きます。
 隆家は廟堂に復帰。なかなか身分を回復できない伊周に代わって、伊周の息子・道雅(みちまさ)の元服の儀で加冠の役目を果たしたり、甥っ子を定子に引き合わせたりしています。
 伊周と対照的な隆家の性格をあらわすエピソードとして……。
 
 藤原斉信(ただのぶ)の従者・藤原善家(よしいえ)が履(くつ)を運んでいたとき、隆家の笏が善家の冠にぶつかって冠が落ちてしまった。当時、冠をかぶっていない頭部を人前にさらすのは「恥」とされていた。一部では「隆家どのがわざとやったのだ」とささやかれ、「いやいや、あんなことは些細なこと」と取り合わない公卿たちもいた。
 その後、道長の邸のところで藤原斉信(ただのぶ)の牛車が隆家の車の(しじ)を破損。
「善家(よしいえ)の冠を落としたことの仕返しでしょうか」
 激怒した隆家がこのことを実資に相談する。実資は
「いや、道長どのの邸の前はたくさんの牛車で混雑していたから、わざとではないでしょう」
「そうか、言われてみればそうですよね」
 あっさりと隆家は納得。周囲が「斉信どのと隆家どのの確執がどうなることか……」と心配するのをよそに、何事もなかったかのように隆家は仕事を続けた……。
 
 さがな者とされる一方で、こうした「竹を割ったような性格」と対人関係のバランスが取れるところが隆家の特徴でしょう。その後も恨みがあるはずの叔父・藤原道長とも、ケンカ相手だったはずの花山法王とも、後年は親しくやりとりをしていきます。
 
 最高権力者・道長との穏やかな親和関係に亀裂が入るのは三条帝の御代。

 三条帝は道長とギクシャクしており、廟堂は「道長派」と「三条帝派」に分断。
 実資と隆家は「三条帝派」として存在感を強くしていきます。
 目の疾患と廟堂での旗色の悪さに失意を深めた隆家に、実資が絶妙のアドバイス。
「太宰府には宋の医者がいて、目の治療に専念できるでしょう。大宰府権帥(だざいふごんのそち)を希望されては?」
 大宰府権帥は任期五年。かつて、兄・伊周が流刑のために用意された役職。
 でも実際は宋との交易窓口として大宰府長官である「帥(そち)」になれば、かなり役得の多い身分です。
 隆家の希望が受け入れられ、陸路で大宰府へ。
 このとき隆家の妻・源兼資(かねすけ)の女(むすめ)が海路を使って夫の任地へ向かっています。
「夫婦で同じ場所へ行くのに、なぜ海路と陸路の別々のルートを?」
 と思うのはわたしだけでしょうか?
 もしかしたら出発時期がずれていたのかもしれません。
 源兼資(かねすけ)の女(むすめ)は夫・隆家より先に船で出発して
「あなたが大宰府に着任する前に、大宰府を住みやすく整えておきますからね」
 などと世話女房的な気を回したのか?
 あるいは「離れ離れなんて寂しい。追いかけて行ってびっくりさせちゃえ」という一途な茶目っ気の持ち主だったとか?
 どちらにしても源兼資(かねすけ)の女(むすめ)という妻は「公家のお飾り妻」の枠におさまらない情熱的な人柄だったようです。
 実際、隆家も彼女をもっとも信頼していたふしがあります。大宰府権帥の最後の年に「刀伊入寇」(寛仁三年 一〇一九)という異国の襲撃を受けるのですが、京にいる妻・源兼資(かねすけ)の女へ「筑紫が異国の賊に襲われている」と手紙を書いています。(そのときには彼女は京へ戻っていたのですね。京で彼女はどんなに気をもんだことか……)
 とにかく、日本が初めて外国の武力侵攻をされた事件ののち……。
 藤原隆家は大宰府権帥に再任されます。(長暦元年 一〇三七)
 そのころにはすでに三条帝も道長も没しています。後一条帝が二十九歳の若さで崩御すると、弟の敦良(あつなが)が後朱雀帝として即位。
 公家や寺社が所有する荘園が増加して、国庫をおびやかしているどころか「ほとんど空っぽだ!」と気づいた後朱雀帝は危機感に青ざめ(長久元年 一〇四〇)「荘園整理令」を発布。
 もっとも、帝の代替わりのたびにこの法令は出されています。
 もともとは違法に手に入れた荘園を禁じ、荘園として成立した土地に法的に不備があれば整理するはずの法令が荘園整理令。ところが、裏を返せば
「正しい手続をして成立させた荘園ならば公認される」
「諸国の国司が発布した荘園整理令も別にあるぞ。こちらは太政官に審議していただければ、承認されるのだ」
 などと権門の荘園はむしろこの法令によって保護されるという、どうしようもない骨抜き法案。
 それでもこの年、隆家が治める大宰府でまたも事件が。
 長久元年(一〇四〇)四月。肥後前司・藤原定任(さだとう)殺人事件。
 場所は四条町にある自邸の近く。襲撃者は合計三人で、内訳は「弓で武装した男二人」と「太刀を持った男一人」でした。背後から射かけられたのでしょう。矢は定任の肩から前方に貫通。翌日の十一日に死去。
 三日後、被害者である藤原定任(さだとう)の妻(隆家の母方の一族・高階道信の娘)が肥後後司の源為弘と関係していたことが発覚。
 三角関係、不倫による犯罪か?
 もしくは前任者と後任者の派閥抗争がからんでいる?
 という疑いを超越する新たな疑惑が!
 定任(さだとう)の妻が「藤原正高」という男と共謀して大宰府から租税や供物を運ぶ「押領使」が京へ旅立つ日を狙って夫・藤原定任(さだとう)を殺害した……らしい。
 つまり、魔性の女「定任(さだとう)の妻」は夫を殺すのに愛人はそそのかさず、正高を実行犯にしたわけです。押領使を足止めするために。
 藤原正高は父親の藤原典高とども、隆家の「第一の従者」でもあったから、
「殺人事件の黒幕は隆家どのでは?」
 と取りざたされました。隆家の長年の友人である実資(さねすけ)は京でそのことを知り
「世間の様子は尋常ではない。王法(おそらく治安や荘園整理令のこと)はすでに無いようなものである。ああ、悲しいことよ」
 と嘆きます。
 亡父・道長の後を継いで関白だった頼通が「藤原典高・正高父子を召し取る」ための官符を大宰府や五畿七道に命じたのですが、
「加茂祭りが過ぎてから官符を下すように」
 とクギを指します。そんなにお祭りが大事かい? と突っ込みをいれたくなります。その一方で
「容疑者を捕らえて引き渡した者には褒美をとらせる。もし犯人たちを隆家どのが隠すようなら不都合なことになるだろう」
 といった官符を右大臣である実資に作成させます。旧友からそういう文書を受け取れば、さすがの隆家も応じるだろうという計算があったのかもしれません。
 月末に、この事件は奇妙な決着が出ます。
 一時は高階一族の郎党が捕らえられたものの、すぐに釈放され、まったく別の事実が判明(? それともでっちあげ?)したのです。
 生前、被害者の定任(さだとう)は府老(大宰府の在庁官人)の某丸とその兄の法師を殺したため、法師の子が「かたきを討った」というのです。
 しかも、定任(さだとう)殺害の犯人は「獄中で自殺」という……。
 え? 魔性の女「定任(さだとう)の妻」はどうなった?
 源為弘は? 藤原典高・正高の父子は? 租税や供物を運ぶ「押領使」については?
 だいたい、どうしていきなり出て来る、府老某丸とその兄の法師って? しかもどうしてきちんと名前を出さないの? 実行犯は三人だから、法師の子は三人いたの? じゃあ獄中で自殺したのは三人なの?
 不自然極まりない殺人事件。
 現代であれば地元でそういう事件があっても、税金は収まるところに収まります。ところが律令制下での租税を徴収する役人の殺人事件は「押領使」の動きをつぶす手段として、かなり有効だったのではないでしょうか?
 だからこそ隆家もまた「荘園整理令に反発して従者・正高に殺人を命じた黒幕」と考えられたのかな……と。
 これは個人的な推察ですが……おそらく定任(さだとう)殺人事件の後、押領使はきちんと租税および献物を京へ納めたのでしょう。その証拠に
「租税が入ったからもうこの事件は幕引きしていいよ」
 とでも言うように、事件はそれ以上詮索されませんでした。まあ、加茂の祭りを優先する関白・頼通のことですから平安時代らしいですね。
 以下、妄想です。↓
 個人的な犯人当てとしては、実行犯は「藤原典高・正高の父子」と「源為弘」の三人ではなかったか、と。そして登場してほしいのはやはり魔性の女「定任(さだとう)の妻」
 たぶん、司の役職を罷免された夫・定任に愛想をつかした「魔性の女」は後任の司・源為弘を誘惑。
(定任と離縁して為弘の妻になりたいのに、夫が承知しない。……いっそ、夫さえ死んでくれれば)
 不満が殺意に変わったころ、折しも荘園整理令の発布がありました。
「この地に開いた帥(そち 隆家のこと)さまの荘園も没収されるかもしれん」
 と藤原典高・正高の父子と源為弘の三人が愚痴っていたと想定します。
 魔性の女「定任(さだとう)の妻」は隆家の母方の親戚という自分の立場を活かして、三人の男たちを巧みに誘導します。
「そうそう、わたしの夫は押領使に密告すると申していましたわ。荘園整理令のことを帥さまがとても不興気だったと。だって、遠い大宰府が刀伊に襲われたとき、ぜんぜん対処してくれなかった朝廷でしょ? どうして帥さまの荘園を国庫に納めねばならないのかしら。その上、いい加減なことを定任に密告されたりしたら、お気の毒よね」
「何? 密告?」
「定任め、許せぬ! ヤツを押領使と接触させてはならぬ」
「押領使が京へ発つ前に定任を殺害せねば!」
 そして実行された殺人事件……というところではなかったかと思います。
 隆家は押領使にきちんと租税を京へ運ばせる一方で、定任に殺された「府老某丸とその兄の法師」をでっち上げ、法師の子による「かたき討ちだった」という決着をつけて自分の従者「藤原典高・正高の父子」と「源為弘」をかばったのではないでしょうか?
 晩年、こういう事件が身辺に起きた隆家。
 摂関期・藤原道長の「名わき役」としてなかなか「華」のある人物でした。

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