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検非違使別件 六 ⑪

 翌朝。
「舞姫さゆりの『笛吹童子』を演じていたという、ゆずかを検非違使庁へ連れて参れ」
 仁木緒は稲若に命じ、家を出た。

 看督長の詰め所に顔を出すなり、車座になって額を寄せ合っていた同僚たちの輪から橘貞麿が立ち上がった。仁木緒のたもとをつかんだ。
「仁木緒、とんでもないことになった」
「成房どのから聞いたろう。表向き脱獄などないことになったのだ。だからといって、荒彦を追わなくてよいというのではなく、検非違使の威信をかけて捕縛せよと命じられている」
 てっきり荒彦の脱獄か、能原門継の石見丸殺害のことであろうと見当をつけ、仁木緒はなだめる口ぶりになった。
「石見丸は気の毒だったが、名高い凶賊の能原は捕らえてあるし、荒彦についても心当たりがある。案ずるより早く解決するかもしれぬ」
「これは……祟るのではないか……」
「ん? 祟りではない。極秘裏に別件として扱う理由はあくまで刑部省からの邪魔だてを防ぎ、我らが別当さまの失脚を狙う者たちを黙らせるための措置だ。それゆえ、今後は別件について口外しないでもらいたい」
 車座になっていた看督長・坂上田頭男さかのうえのたずおが思い余った表情で立ち上がり、仁木緒に近づくなり耳打ちした。
「石川彦虫が、死んだ」
「なに……ッ。それを早く言え。急病か?」
 祟りじゃ、怨霊じゃと要領を得ない橘貞麿の説明より、坂上田頭男の方が詳しかった。
宿直とのい(夜勤)であったわしが、丑の刻(午前二時)に見つけたのだ。獄舎そばに生えているイチイの木の枝に、石川彦虫が首をくくってぶらさがっているのを。遺骸はいま、獄舎の裏の物置小屋じゃ」

 仁木緒はすぐ、そこへ向かった。
 雨じみの浮いた板戸を開いた。土間に板戸が二枚敷かれてあり、それぞれすっぽりと荒むしろがかぶせられた遺骸が横たわっている。一つは石見丸の遺骸で、隣が石川彦虫である。

 一度合掌し、仁木緒は石川彦虫の遺骸の上から荒むしろをはいだ。
 まだ異臭はない。石川彦虫の顔には何者かの暴行を受けたらしき青あざや裂傷があった。腕に触れてみた。硬直は始まっている。帯を解き、衣を脱がせて検めると脇腹にも背中にも打撲のうっ血が見られた。膝などは強打されたあざがあり、関節がはずれている。首の皮膚には紐のような細いモノできつく締められた跡がついていた。

「木の枝で首をくくっていたが……自死ではあるまい。この膝では立って歩くこともできぬ。乱暴され、まだ息があるうちに運び込まれ、吊るされたのであろう」
 坂上田頭男が言うまでもなかった。
 死をケガレとして忌む貴族の風潮である。内裏で急病人が出て危篤状態となると、医者を呼ぶより先に病人を移動させることもしばしばだ。その場を死や病で「穢さぬ」ための措置である。結果、病人の死期を早める悲劇も多い。

 命を奪う目的で石川彦虫は暴力を受け、その死が迫ると今度はその場をケガレさせてはならぬという理由で、検非違使庁獄舎そばにあるイチイの木の枝に吊るされたのだ。

 無惨な石川彦虫の遺骸に再び手を合わせてから、仁木緒は荒むしろで遺体をおおい直して立ち上がった。
着鈦ちゃくだまつりごとのあと、この男はずっと姿が見えなかった」
「普段から怠惰なヤツであるからな。上役さまに叱責を受けているか、見回りのふりをして他所で時をつぶしているのか、と思っていたが……」
 坂上田頭男が憂鬱そうにうなずいた。横で怯えているのは橘貞麿である。
「これは凶兆じゃ。きっと彦虫は怨霊となるぞ。この男は霊となって祟るに決まっている」
 いまいまし気に舌打ちし、坂上田頭男が食って掛かった。
「いい加減にしろ、貞麿! そのような体たらくで看督長がつとまるかッ。紀成房どのと仁木緒が別件で抜け、彦虫がいなくなったのだ。その分、わしらが気を引き締めてつとめねばならんのだぞ!」
「ううう、ああぁ、では今宵の宿直はわしか……。夜闇が恐ろしい……」
 頭を抱えて橘貞麿がうなだれる。臆病者め、と唾棄する坂上田頭男の肩をつかんで仁木緒が確かめた。

「気づいたのが丑の刻ということは、彦虫が運び込まれたのは子の刻(午前零時)から丑の刻前ということですね」
「おそらくな。獄舎の夜の見回りは亥の刻(午後十一時)とあかつき前の丑の刻。獄囚どもに聞いたら、陰陽寮から子の刻を知らせる太鼓の音のあと、イチイの木に人の気配があったと申している」

 暦や時刻を司る役所・陰陽寮では水滴で時を計る「漏刻ろうこく」が用いられている。寺院でも香の燃える速度から時を計り、鐘やほら貝の音で勤行のはじまりを知らせた。

 内裏の開門は丑の刻(午前二時)から寅の刻(午前四時)の間、午前三時。
 この時刻が日付の変わる「時」とされていたのだった。

 午前三時から午前五時までを「暁」とし、それ以降の卯の刻(午前六時)から辰の刻(午前七時)までは、官職を持つ貴族たちが内裏へ出勤する「つとめて」と言われる時刻である。

「内裏開門の時刻から『つとめて』の刻限に獄舎に近づけば、官人の牛車が行き交って従者らの人目につく。宿直が獄舎見回りをする隙をついて石川彦虫をイチイの木につるしたということは……」
 仁木緒が思案する隣で、橘貞麿が上ずった鼻声をあげた。
「物の怪じゃ……物の怪が彦虫を運び込んだのだ」
「だまれッ。おぬしなどここから放り出してやる!」
 ついに一喝し、坂上田頭男が橘貞麿の耳をつかんで足音荒く小屋を出ていった。

 橘貞麿らと入れ替わるようにして、あわただしく紀成房が入ってきた。青ざめていた。
「石川彦虫が、死んだと聞いたぞ」
 開口一番に仁木緒に言い、それから足元に横たわる荒むしろの下の二つ目のふくらみに息を飲んだ。
「右が昨日殺された石見丸。左が石川彦虫です」
「うむ……」
 しゃがみこみ、左の荒むしろをめくって紀成房が遺骸の裂傷や変色した皮膚を検める。やがて立ち上がると、仁木緒に声をひそめた。

「どう思う」
「昨夜、父からもこの男には『注意せよ』と言いつかっていたのです。石川彦虫は着鈦ちゃくだまつりごとで、荒彦と能原門継の入れ替わりを成したわたしたちの内の一人。しかも、儀式終了直後から姿を消しています」
 刑部省の役人・錦景時の含み笑いが脳裏によみがえる。
 ……峻厳実直な検非違使別当・源経成さまともあろうお方が、よりによって囚人を入れ替えたらしゅうとのこと……
 あの一言で仁木緒は背筋が凍ったのだ。
「荒彦と能原門継を入れ替えて儀式にのぞませた一件を、刑部省に密告したのは石川彦虫でありましょう」
「なぜ、そのようなことを。検非違使の権威に関わる重大事を……。おのれの首を絞めるようなことじゃぞ」
「本心では望んではいない看督長の職務だったのではないでしょうか。検非違使の役人はケガレを扱うために恐れられ、蔑まれもします。若い獄囚どもを慰んでいたことで、同僚たちからも彦虫は嫌われて孤立していました。だからこそ、検非違使の権威をおとしめる材料に飛びついた。ついでにわたしを陥れることができるわけですから」
「……うう、では、つまり……。く、口にするのもおぞましい」
「推測ですが……。刑部省のお方がこやつの密告を真に受けて別当さまのもとへまかり出てみれば、逆に我らの解文……獄舎再建願いの解文ですが……ああいった刑部省にとっては無視したい問題をほのめかされ、顔を潰された。ゆえに密告者である石川彦虫を憎んで乱暴し、命が危ういと察して瀕死のこやつを木の枝に吊るした……ということではないかと」
「身辺がケガレるのを恐れておいでのお方なら、あり得ぬことではないが……何も殺すことはあるまいに……」
 紀成房は肩を落としている。根が善人なだけに、立て続けに起こった事件の数々と、石川彦虫の死に衝撃を受けているのだ。
「石川彦虫には家族もおらなんだな。遺骸は石見丸と同じ鳥辺野へ送ろう。三位以上の位階がなくては、墓を建てるなど許されておらんからな。……獄囚も看督長も同じ風葬じゃ」
 紀成房が吐息をつく。
(イヤなヤツだったが、気の毒だ)
 一定の哀悼の念を覚えるものの、仁木緒はしかし、石川彦虫の死で別件に向き合う姿勢が軽くなったのを感じていた。

「逆に、やりやすくなりましたな」
 小屋を出ながら、自分でも予想外に明るい声を紀成房に投げた。紀成房が目を見開いて、まじまじと仁木緒をながめる。
「密告者であろうがなかろうが、彦虫は危険でした。別件として秘密裏に脱獄囚を追う以上、おのれの職務が不満で秘密を漏らす恐れがありましたから」
「……わしはそこまで、割り切れぬよ」
 くじけている場合ではない。そう続けそうになって、仁木緒は唇を引き結んだ。いま紀成房が聞けば、混乱させてしまう。
(何者が石川彦虫に危害を加え、検非違使庁舎近くの木に吊るしたのか) 
 その疑問より強く意識しなくてはならないことがある。
(わざわざ彦虫をあそこに吊るしたのは、警告のつもりか……?)
 たった一人で石川彦虫を木に吊るすことは不可能だ。見張りをたて、体を持ち上げて紐に首をかけなくてはならず、二人以上の人手がいる。

 看督長に乱暴したということは、それだけで検非違使庁への冒涜になるはずだ。そのうえ大胆にも命を奪った。石川彦虫を隠すことができたというのに、わざわざ庁舎近くに運びこみ、見せしめにしたのだ。これは「警告」もしくは「挑戦」と受け取るべきだろう。

 そんな発想ができる自分に、仁木緒本人が驚いていた。

 荒彦の脱獄を許してしまった失態に続き、囚人の入れ替えという不遜な事態をしでかしたことで、仁木緒は四角四面な生真面目さを脱ぎ捨てるきっかけを得たようなものだった。むしろ闘志がわく。

 ゆずと柿の木が無造作に植えられているあたりを通り抜けると、石川彦虫が吊るされていたというイチイの木と枯れ井戸が見えて来た。
 木の幹に、橘貞麿が紙の御札を貼っていた。仁木緒たちを振り返り、おごそかにつぶやいた。
「怨霊封じの呪符じゃ」
 仁木緒と紀成房はうんざりと目交ぜした。呪符には判読できぬ文字と鳥居の絵が描かれてある。
 粥を溶いたノリをイチイの木の幹に塗りたくり、呪符を何枚も何枚もはりつけているのだった。またたくまに樹木の肌が、汚らしくごわついた和紙でおおわれた。
「おい、風雨ですぐはがれるぜ。ゴミになるからよせ」
「そうそう、樹木が気の毒じゃ。だいたい紙がもったいない。はがれ落ちたら誰が掃除する?」
「いやいやいや、ほっといてくれ。怨霊をこれで避けるのだ」
「このような呪符を、何者から手に入れたのだ」
「徳の高い尼僧にすがり、米二合を支払って買ったのだ」
「米二合……ッ。なんという散財を」
「好きにさせてくれ。わしは彦虫の怨霊が怖い」
「あいつが怨霊になると決まったわけではあるまい」
「生前の彦虫の陰険さを忘れたのか? きっと怨霊となって我らを苦しめるぞ」
 呪符を貼り付けながら、念仏を唱えている。仁木緒は太い吐息を落とし、紀成房のたもとを引いて枯れ井戸の方へ移動した。

「ところで、酒房で舞の上手な女は?」
「……残念ながら、杳として手がかりがない」
「では、稲若が唯一の心当たりですね。舞姫の笛吹童子に扮していた『ゆずか』と申す少女を見知っているそうです」
「なに? 童子がおなごだったと?」
「すみません、先に申し上げるべきでした。見つけ次第、庁へ連れてくるよう言い付けましたので、稲若とゆずかが現れると思います。そのときは成房どのから、藤原有綱さまに引き合わせていただけませんか?」
「そうしよう。で、おぬしはどうする?」
「右京三条の藤原登任さまの邸を当たってみます」
「先月、荒彦が放火し、女を殺めたという現場か」
「はい、そこには能原門継とつながりがある伴家継とものいえつぐが家司として住まっております。ただし、わたしのような者が訪れても、事件の模様は聞き出せぬかと……」
「ならば、府生の文屋兼臣ぶんやのかねおみさまに相談してみろ。藤原登任さまの邸で火が出たおり、文屋さまが検分したはずじゃ」
「ありがとうございます。そうしてみます」

 さっそく庁へとって返し、仁木緒は文屋兼臣を探した。
 書庫にいる、と教えてもらい渡殿を突っ切ってから砂利が敷き詰められた中庭へ降りた。高床式の書庫のきざはしを踏み、観音開きの扉を開く。
 果たして、多くの判例集の木簡に囲まれて調べものをしていた文屋兼臣が顔を上げた。
「仁木緒か、いかがした? あ、別件のことか」
 背を丸めて文字を追っていた者特有のぬるんとしたまなざしのまま、文屋兼臣は仁木緒の求めに応じて一つうなずき、もぐもぐと口を動かし始めた。
「……永承五年(一〇五〇)の陸奥国鬼切部の戦いで敗北し、陸奥国守を解任されたとはいえ……藤原登任なりとうさまが陸奥六郡から都の自邸へ運び込んだのは黄金、しろがねあかがねだけではない。アザラシの毛皮、こうぞから作られた上質の和紙、昆布といった特産品を含めれば荷駄十五台以上。……陸奥国守を更迭されてから猟官できずにいらっしゃるが、蓄えは尽きていないはず。……散(さん)位(い)(失業中)であっても財産家……というのが、藤原登任さまの評判。すでに官職につくことはあきらめて出家なさったはずが、しばしば宴席などを開いて遊んでおったそうな」
「文屋さまは、登任さまご本人とお会いになりましたか?」
「まさか、わしのような身分の者が面会などできるわけがない。焼け跡を検分し、家司の伴家継どのから聴取しただけじゃ」
「その伴家継どのが、どうやら能原門継とつながりがある様子なのです」
「らしいな」
「して、放火はどれほどの規模だったのでしょうか」
伎楽殿ぎがくでん……と邸の者たちが呼んでいた舞台が焼け落ちた」
「ぎがく? 仮面をつけて異国の衣装をまとい、太鼓や鉦の音に合わせて舞う……神仏に奉納する舞踏ですか?」
 仁木緒の問いに文屋兼臣は一つうなずいた。
「仮面をつけて舞うかどうかは知らぬが……どうも登任さまは陸奥国守むつのかみであったとき、ああいう舞人に夢中になられたらしい。都では陸奥国を辺境の地と侮っているが……あそこは産出する黄金で、異国と秘かに交易しているというウワサじゃ」
「そのような交易を、国守くにのかみがなさっているとは初耳です」
「いや、朝廷で関与しているのではなく、どうやらその地の豪族が取り仕切っているそうな」
 とらえどころのない無気力な表情の文屋兼臣に、仁木緒は軽い苛立ちを覚えた。
「延焼はしなかったのですか?」
「うむ。不幸中の幸いで、伎楽殿のみが焼け落ちていた。見る影もなかった。……むしろ、焼亡して登任さまにはよかったのではないかと、わしとしては考えている……。散位さんい(失業)を嘆いて出家したというのに、この都で派手な伎楽の舞人など抱えていては、体面が悪かろう。事実、ご子息らの頭痛の種であったらしい」

 貴族の子息にしてみれば、父の失脚は自分の出世にも影響する。父親の後ろ盾があればこそ、廟堂で出世することができるのであり、体面を汚す父・登任の存在は息子たちにとって重荷でしかなかったのだろう。

「子息ら……長宗どのと長明どのお二人は実母の平氏を頼り、武官として都を出ておられる。父を見捨てた冷たいご子息というよりも、出家したというのに伎楽や酒宴にうつつを抜かしている親であれば、やむを得まい」
「ご子息は他にいらっしゃらないのですか? 姫は?」
「登任さまは姫君を得られなかったようじゃ。子息は他に二人。僧の任尊とうそんどのと実覚じっかくどの」
「その舞台に、なにゆえ荒彦は放火などしたのでしょうか。雑仕女の殺害などと……」
「本人がしゃべれなかったから、聴取はできなかった。ゆえに捕縛した家司の伴家継どのの言葉を文書にしたためて荒彦を獄舎へ入れたというわけじゃ」
 獄中でも、荒彦は一言も口をきかなかったことを仁木緒は思い出していた。
 きかなかったのではなく、きけなかったのではないか……。
 いまさらになって、荒彦がまともに食事すらとれていなかったのではないかと思い当たった。

 獄舎では看督長が粥をほどこすこともあるが、囚人たちの世話はしない。ただ収容して監視するだけだ。懲役場へ連れて行って働かせ、獄舎へ戻す。その間、脱獄はないかと目を光らせるが、食事の調達や病人への投薬といった配慮はない。
 まれに獄囚に食べ物を差し入れする慈悲深い人々もいるが、囚人たちは飢えと渇きで弱る一方だった。獄につなぐというのは、それだけで罰を科されているのと同じなのだ。
「荒彦には、のどに傷があったのではないでしょうか?」
「かもしれぬな」
「荒彦が濡れ衣をかぶせられた……と、お疑いにはならなかったのですか」
「わしが疑ったところでなんになる」
 文屋兼臣は席を立ち、棚から一本の木簡を抜き出して戻ってきた。それを仁木緒の前に置いた。
「放火と女が殺されたとはいえ、身分あるお方の邸で起こったことは公にはできぬ。ただでさえ陸奥国で豪族を鎮圧できずに更迭され、失脚した藤原登任さまじゃ。伴家継どのより『この事件はくれぐれも内密に……』と念を押された。ゆえに公文書に清書はせず、木簡で記録しておったというわけじゃ」
 しょぼしょぼとした目元を右手の指で押さえ、文屋兼臣が咳ばらいをしてのどの通りを整えた。
「懸想した女に袖にされ、逆上した荒彦が女を刺した。ついでに強盗を働こうと伎楽殿に放火……と言われたことのみを記した。あまり参考にはなるまいよ」
「殺された女の遺骸はどうでしたか」
「黒焦げであった……。といっても、焼死体は四体」
「え、雑仕女一人ではなかったのですか?」
「一見してどれが殺された女の遺骸であるのかすら分からなかった。ああも焼けただれていては、男女の区別もつかぬ……。それでも他の三体より小柄で胸に刺し傷と思える傷跡のある遺骸が女であろうと判断した」
「四人もの死者が出たというのに、女一人を殺したと届けがあったのは不審ですね」
「うむ、貴族は体面を重んじる。牛飼いの千歳丸が火事を近所に騒ぎ立て、四人も焼死者を出したゆえ……邸の不始末を内々で片付けることができず、やむなく検非違使庁に犯人を差し出したというわけであろうよ。つまり、荒彦は貴族の体面を守るために差し出された『いけにえ』じゃな。まあ、前世の因縁であろう」
「殺された女は……本当に雑仕女だったのでしょうか?」
 舞姫ではなかったか? 仁木緒は疑った。
「自邸に舞台を設置するほど伎楽を好み、藤原登任さまは舞人を抱えていたのなら、その舞人とは女人ではなかったでしょうか?」
 舞姫のさゆりを殺した、と能原門継は口にしたのだ。
 文屋兼臣はぬるんとしたまなざしのまま、仁木緒が言葉を続けるのを待つ姿勢である。
「真実は能原門継が舞姫を殺し、その罪を荒彦にかぶせた。放火したというのも、実は失火かあるいはその犯行を隠すために火を放ったのかもしれず、あとの三人は巻き添えで焼死したのかもしれません……」
 だが、さゆりという舞姫は生きている。その舞をこの目で見たのだ。そして、荒彦を囚人の列から連れ去った。
「ふん、そう察しがついたところで、わしのような小役人に何ができる? 殺された女は雑仕女と言われればそう記載するしかない。果たして女が賄いや水くみ、樋箱ひばこ(ポータブルトイレ)を洗う樋洗ひすましといった汚れた仕事をしていたのか、それとも客人の夜伽をする女房の役目も受け持っていたのか……。伴家継は明かさなかった。女の名前すら、な」
 文屋兼臣が首を左右に回すとぽきりと音がした。仁木緒もまた吐息が出た。
「どうせ身分高いお方の体面におもんばかって、さまざまな悪事が握りつぶされるのだ。……仁木緒、おぬしが家司の伴家継を訪ねても会って下さらぬであろうよ」
「文屋さまは口惜しくはないのですか」
 思わず言い放っていた。
「検非違使庁はケガレを払い、都の治安を守ることで帝の権威をお守りする役所。その獄舎に罪なき少年を投じたとすれば、影で無法な賊どもがせせら笑っているのですぞ。恥辱を感じないのですか。おのれの失点にならねばそれでよいとお考えなのですか?」
 文屋兼臣が苦い表情で視線を落としている。対する仁木緒はひやりとした。いくらなんでも上役に言い過ぎた。生意気を申すな、と逆上の罵声が飛んでくるのを待った。
 だが、文屋兼臣は決まり悪げに首根をなでている。やむなく仁木緒は「失礼いたしました」と頭を下げた。
「いや、おぬしの申した通りじゃ」
 文屋兼臣が片手をあげる。
「荒彦が起こした事件について、詳しくしゃべってくれそうな者に心当たりがある」
 言いながら文屋兼臣は、左の袖口に右手を入れてひじのあたりを撫でさすった。その様子がどことなくとぼけている。
「最近、登任さまの邸では奉公人たちが大勢入れ替わったそうな」
 すぐには名前を出さない。はぐらかすつもりだろうかと仁木緒は用心した。
「まるで、事件について知っている者を追い出すかのように?」
「邪推は禁物だが、まあ、そうとも言えるな。で、牛車の牛飼いわらべをしていた男……名は千歳丸。ふん、髷を結い上げて烏帽子をかぶらぬため、齢(よわい)が三十過ぎても『わらべ』なのだが……。そやつが右京三条の登任さまの邸を解雇され、しかもそのときにひどい怪我を負わされた。きっと不満と恨みを抱えておるだろうよ。千歳丸は右京六条山小路に住まっている」
「六条の山小路ですか」
「都のはずれの寂しいところだ。検非違使庁の者じゃと脅すのではなく……正直に話せばきっと神仏のご加護が得られるであろう……とでも持ち掛ければ、善根ゆえ、何か聞き出せるかもしれぬよ」
「ありがとうございます」
 礼を述べて退室しようとした仁木緒に、文屋兼臣がうなずいた。
「初心を忘れていたわしが愚かであった。おぬしが言った通り、帝の権威を守る盾であるわしらが無実の者を獄に投じたとあっては不徳のかぎりじゃ……。この別件、必ず真相を突き止めようぞ。わしも尽力いたす」

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