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検非違使別件 九 ⑯

 都の入り口である羅生門で、仁木緒はいつもの退紅色の狩衣に袴、藁沓といった看督長のいでたちだった。

 白杖は錦行連にしきのゆきつらのために断ち折られたため、別の物を手にしていた。六尺の長さがある節を抜いた竹である。中に溶かした鉛を流し込んである。一見するとただの太い竹の棒になるところを、白布を胴に巻き付けて白杖にしたのだ。白布は薄汚れてかなり使い込まれていることを示していた。
 実のところ、白布が滑り止めとなって扱い易い。太刀で斬りつけられてもシンの鉛に刃が立たぬし、相手を打ち据えるときの打撃力も充分だ。心強い。まだ五体が頑健であったころの周宜が、少年の仁木緒に鍛錬させるべく用意した竹製の六尺棒なのである。

 東の空から差し込む日差しを受けて羅生門の太い柱に背中をあずけていると、三つの人影が目に入った。
「……これは」
 白から暖色に変わりつつある朝の輝きの中で、多紀満老人と千歳丸を左右にして尼僧頭巾が風にふくらんでいる。仁木緒は唖然とした。
 羅生門から離れ、三人を出迎えるために数歩近づいた。
「おはようございます。お待たせいたしました」
 やや足早に歩いたせいでかすかに息が切れている。泥蓮尼が合掌し、三人そろって挨拶をした。仁木緒と泥蓮尼が同時に言った。
「泥蓮尼……なぜ、あなたがここに」
「ゆずかはとよめにあずけて参りました」
 謝罪するように深々と頭を下げた。
 厳しい言葉を投げつけなければならない。そう考えていた仁木緒だったが、本人を前にすると責める声色にはなれなかった。
「逃げたのではなかったのですか?」
「昨日は失礼いたしました。わたくしはただ、ゆずかに怖い思いをさせたくない一心だったのです」
「……なるほど。おれはそれを、逃げたと誤解を」
「いえ、誤解ではありません。わたくしは怖かったのです。本当はいまも逃げ出したいのです」
 そう言いながらも、泥蓮尼は穏やかに口角を上げている。しっとりとした笑みは菩薩像を思わせた。困っているような、悲しんでいるようにも見える微笑みだった。
「何が怖いとおっしゃるんです」
 その笑みにだまされるものか。仁木緒は腹の底に力をこめた。
「仏門におられるお方が、何を恐れているのですか。まさか、検非違使の追及が怖いわけでもありますまい」
「まだ修行中の者ゆえ、世の中すべてが恐ろしゅうございます。未熟なおのれがお恥ずかしい」
 泥蓮尼が合掌する。
(……こいつ)
 巧みに尼僧の立場を隠れ蓑に使う女に苛立ちを募らせつつも、仁木緒は心のどこかで面白がってもいた。純粋に喜んでいた。泥蓮尼が現れたことを。
 胸のときめきに気づくと同時に、目を細めて泥蓮尼を観察した。
「まさか、遺骸を検めるなどと大胆な手段に出るとは思ってもおりませんでしたわ」
 ゆっくりとまばたきし、泥蓮尼が仁木緒の視線を受け入れている。
「多紀満どのからお聞きになったのですね」
「はい。そのような思い切った所業をなさるのはよほどの覚悟とお見受けいたしました。一度は逃げたわたくしですが、ゆずかを巻き込まぬためにもご同行いたします。足手まといにはなりませぬゆえ、ご心配には及びません」

 遺骸をより分けるための用意と、かなり歩くことを覚悟して多紀満老人と千歳丸、泥蓮尼らは杖を持参している。
 多紀満老人がよたよたと歩を進めた。一間ほど先を行ってから振り返った。
「これから東……鳥辺野でございましょう。足が弱いわしに、先触れをしゃれこませていただきますよ」
 とぼけた調子で多紀満老人がうながす。千歳丸もまた、杖を持ち直して首をすくめてうなずいた。
「加茂川を渡って、さっさと遺骸を探し出してしまいましょう。わっしは恐ろしくて仕方がない。怖いことは早く終わらせてしまいたいもので……」  
 多紀満老人を先頭に千歳丸、その後ろを仁木緒と泥蓮尼が並んで歩いた。
 羅生門の礎石から離れるとすぐ石畳は切れた。ハコベが生い茂る道になり、やがて葦のざわめきが聞こえる場所に出た。
 しばらく誰も口をきかなかった。
「骨を見て、男女の違いが分かりますか?」
 不意に泥蓮尼がささやいた。仁木緒は空耳かと疑い、左のやや後ろにいる泥蓮尼の顔をのぞきこむ。形のいい唇が再び動いた。
「風葬されたご遺体から、性別がお分かりになりますか? 佐伯さま」
「骨の細さと形で判断できる……と思います」
 これまでいくつか目にした遺骸の記憶をさぐりながら、骨格から割り出される真実がいかばかりかと思い悩んだ。
「細ければ女、太ければ男……ということでしょうか? でも、子どもと大人の違いもあれば、体格もさまざまでしょうに」
「いえ、腰の骨が横に広がっていれば女で、あまり幅がなければ男……という判断基準があるようです。先輩の紀成房どのによれば……」
 そう答えたものの、少々疑った。女好きの紀成房の意見ゆえ、腰骨の形にこだわりがあるだけではあるまいか? これは当てにならぬかもしれない。
「しかし……わずかに衣の燃えカスでも残っていれば、なんとかなると思います」
 歩を止めて、多紀満老人が腰をかがめて息を切らしている。仁木緒は休憩し、持参した水を飲む。高くなりつつある陽を見上げた。

 やがて継橋つぎはしが見えて来た。川底に点々と杭を何本か打ち込んでゆき、その杭から杭までを板で継いで対岸まで渡した橋である。
「おお、誰かが橋を架けてくれたか」
「衣を濡らさぬですむ。ありがたや、ありがたや……」
 川の中を袴のすそをからげて歩くつもりだった多紀満老人と千歳丸が歓声をあげる。泥蓮尼も「これは御仏のご加護です」と合掌する。
「ここで一つ、喜びの舞を一指し」
 杖を千歳丸に手渡すと、多紀満老人が橋の手前で軽く飛び跳ねて両手を空に突き出した。
「みそぎする 加茂の川風吹くらしも 涼みにゆかむ いもをともなひ」
 歌人・曽禰好忠そねのよしただの和歌を口ずさみながら、軽妙に手足を動かしている。この和歌でのいもとは妻を意味している。千歳丸も両手に杖を掲げて踊りだしながら訂正を入れた。「多紀満どの、ここはいもではなく、尼をともなひ……と歌ってはどうです」
「む、そうじゃな。……みそぎする 加茂の川風吹くらしも 涼みにゆかむ 尼をともなひ……。おお、きちんとおさまったぞ」
「さようでしょう、さようでしょう」
 二人とも真剣である。仁木緒は軽い苛立ちを感じた。
ぬさを捧げます。どうぞ無事に橋を渡してくださいませ」
 ふところから取り出した巾着袋の紐をゆるめ、小さく束ねた葦の葉を千歳丸が空中にばらまきはじめる。たちまち継橋のたもとは植物の葉でちらかった。
 麻や木綿で作った祓いの道具をぬさと呼び、裕福な神官などは紙や布を用いるが、まだまだ庶民は草木を幣に見立てて使っている。
 多紀満老人もまた、同じく幣を用意してきたらしい。細長い植物の葉を束ねて小さなホウキに似た物を投じ始めた。
「ここはサカじゃないぜ」
 迷信深い橘貞麿の顔を脳裏に思い浮かべながら、仁木緒が苦り切った。辻や道の切れ目でしばしば歌って踊っていては、いつ鳥辺野に到着できることやら。
 といってもおのれもまた、起床時に属星を七回唱えようかと迷ったのだ。幣をばらまいて道中の無事と安全を祈願する二人を嘲笑するわけにもいかない。

 もともと幣というのは、自分の体の代用品である。仏教よりも古い信仰では、土地の境界(サカ)では、おのれの体の代用品(幣)を土地神に捧げて道中の無事と安全を保証してもらう習慣があった。そしてその土地の名を入れた歌を詠んで舞を捧げることも、幣を捧げるのと同じく土地神を尊崇していることを示すためのもので、安全祈願の意味があるのだった。

「幣、それから歌と舞を捧げるほど、敬虔な心で鳥辺野へ行こうとしているのですわ」
 泥蓮尼がやや緊張した面持ちで仁木緒に取りなした。
「水鳥の 鴨の羽色の 春山の おほつかなくも 思ほゆるかも……」
 泥蓮尼もまた、古歌を詠じている。
 笠郎女かさのいらつめという歌人が詠んだ恋の歌である。

 ……加茂(鴨)と春山の山影がぼんやりとおぼつかないように、あなたの心もまたはっきりと分からないのが心細いです……

(まさかおれに向けた歌ではあるまい)
 加茂川の名の中にある「鴨」が入った古歌であるから、ふと口にしただけだろう。そう分かっているはずだったが、泥蓮尼のまなざしに動揺した。思わず、返歌しなければ……と焦りを感じる。すばやく記憶をさぐった。
 加茂川の名称にある水鳥を入れた万葉古歌なら、仁木緒も知っている。
吾妹子わぎもこに 恋ふれにかあらむ 沖に住む 鴨の浮寝の 安けくもなし……」

 ……沖に住む鴨が浮かぶように心が揺れ動くのは、あなたに恋をしているせいだろうか……

 ここで見事な自作の和歌を披露できればよいのだが……などと、つい思いつめた仁木緒だが、鴨を入れておのれの心理を表現できるほど歌才があるはずもなかった。

 泥蓮尼が目を見開いている。頬がゆっくりと上気していく。

 その表情で、この返歌が自分に向けられたように感じたのだと知った。同時に、たった今口をついて出たのが恋の告白の歌であったことに愕然となった。
「……これは」
 ただの歌です、川と橋に捧げるための歌ですよ、とっさに覚えていた古歌を口にしただけです……などと弁解するのも愚かしい。
(そうだ、おれはこの人に惹かれている。だが、問いたださねばならぬことが多すぎる。問いただして……真実を知るべきなのか、迷ってもいる)
 困ったような曖昧な笑みを浮かべ、泥蓮尼が仁木緒を見あげている。相手の言葉を待っているようでもあり、優しく拒絶しているようでもあった。

「橋を渡りましょう」
 仁木緒の肩越しに視線を向けた。つられて振り返ると、継橋をひょこひょこと多紀満老人が渡っていく背中が見えた。千歳丸もまた、足元を探りながら橋板を踏んでいる。
 幅一尺ほどの橋板が二枚並んで杭の上に固定されている継橋には、手すりがない。橋板は体重の移動ごとに、ところどころぐらついた。足元の朽ちて割れている部分から、せせらぎのきらめきがのぞいている。
 多紀満老人が継橋の真ん中あたりで振り返った。
「ほれ、ここの橋板が一本、大きく崩れている。用心して渡りなされ」
 片側の橋板に足をのせ、そろそろと横歩きになった。
「遺骸を検めに行く途中、わっしらが水死体となっちゃあつまらない」
 ぶつぶつ口ごもり、千歳丸がふところに手を突っ込んだ。布袋を取り出すと、紐でしぼった口を広げて中身をつかみだす。ここでも幣をまき散らしはじめた。
「どうぞ無事に渡り切れますように……」
「後がつかえているんだ。さっさと渡ってしまえ」
 我慢強い口ぶりで、仁木緒がうながした。
「ここで舞など舞えば、橋が落ちるぞ」
「はあ、幣を撒くだけにいたします。無事に渡り終えるよう、祈願しているのですよ」
「幣をばらまくなら、この先の六道の辻あたりでもいいだろうに……」
 苦情をつぶやきながら、泥蓮尼の右手を左手で握った。
 がたつく橋板のせいで足元がおぼつかぬ様子が不安で、思わず手を差し伸べたのだ。それは自然な動作だった。
 仁木緒の手の中で、可憐な爪を持つ小さな生き物がじっと身をすくめて滑らかな感触を伝えてくる。わずかに震えているかと思えば、大胆に握り返してきたりした。
 橋を一歩進むごとに泥蓮尼の手は温かみを増し、指をからめてすがりついた。この人に頼られていると思うと仁木緒は自分が誇らしかった。それでも川を渡る間、泥蓮尼を振り返らなかった。ただこの時間がいつまでも終わらねばいい、この人も同じ思いであってくれと願い、指の先の丸みと素直な温かさに、きっと同じ思いに違いないと確信していることに気づいて驚いた。
 やがて、先頭の千歳丸が無事に川岸へたどり着いた。多紀満老人も続いて継橋を降りる。
 やむなく仁木緒はそっと泥蓮尼の手を離した。そのときお互いの目をのぞきこみ合い、口元をほころばせた。

「やれやれ、みな渡り終えましたな」
 河原で多紀満老人が仁木緒たちをぐるりと見回した。またしても幣を撒こうと袋に手を入れる。無事を喜び、ここでも舞を舞うつもりらしい。
「よせ、まだ先があるんだぞ」
「はいはい、では心静かに合掌いたしましょう」
 多紀満老人がちんまりとした烏帽子をうつむけ、手を合わせて目をつぶる。千歳丸も同じ姿勢をし、泥蓮尼は静かに阿弥陀経を唱えている。 

 六道の辻の寺を通り過ぎ、やがて苔むした石地蔵が並ぶ細道に入った。

 そのころになると、異臭で鼻をおおわずにはいられなかった。頭上を覆う木々の枝のせいで陽光が足元に届かない。薄暗い。カラスが羽音をたてて飛び交い、枝にぶらさがった黒ずんだ人影を風が揺らしていた。草陰では虫たちが腐臭を放つ柔らかいものを食んでいる気配である。
 そこここの暗がりでは、すでに風化した骨がほの白く散らばり、あるいはまだ形を保ってぼろをまとってうずくまっていた。
 坂道を登り、再び勾配を下った。そう遠くないところでは、野犬の群れが遺骸をむさぼっている。
 低く念仏を唱えながら先を歩いていた千歳丸が歩を止めた。
「そこでございます……」
 巨岩の根元のくぼみに、無惨な人骨が四体あった。すでに獣にむさぼられたらしく手足を失ってはいたが、腰骨から頭蓋骨までが人の形を成して、岩にもたれかかっていた。

 多紀満老人、千歳丸、泥蓮尼が合掌し、念仏を唱える声に力みが入る。用心深い足取りで、仁木緒は巨岩の影にもたれかかっている死者たちに近づいた。
 焼死者なのだ。顔立ちも衣も、ここに運び込まれたときにはすでに酸化して損なわれていただろう。だが、四体のうち右の一体は仁木緒の目から見ても小柄で骨が細いことが知れた。
(これが、舞姫のさゆり……)
 生きていればしなやかに袖布をあやつり、見物人を魅了する優美な舞踏を踏んだ女。彼女はいま、ここに一個の黒ずんだ物体となっている。
 仁木緒は竹の六尺棒をかたわらに立てかけて、黙祷した。
 目を開いて残りの三体をながめる。
 頭蓋骨の様子から、一体が残りの二体より年かさなのではないかと思えた。根拠は前歯の少なさだ。寄る年波で歯を痛めた者が風葬にされれば遺骸の歯並びの悪さが目につくだろう。逆に、若者の遺骸なら歯が抜け落ちるのに時間がかかるのではないか。

「千歳丸……もし、おぬしの憶測が当たっていれば、この三体のうち二体は」
「はあ、旧主・藤原登任さまの僧籍に入れた二人のご子息・任尊さまと実覚さま……」
 千歳丸が蚊の鳴くような声色でつぶやく。振り返ると、泣いていた。仁木緒は目を細めた。
「お前はよく泣くんだな……。少し前から、奇妙だと思っていた」
「千歳丸の涙が、そんなに不思議ですか?」
泥蓮尼の問いに仁木緒は首を振った。
「いや、奇妙というのは藤原登任なりとうさまだ。出家された身とはいえ、側女同様に愛でていた舞姫と息子二人を失ったとすれば、なにゆえあのお方は事の次第を隠匿し、沈黙を守っているのか……。貴族として体面をおもんばかっているにしても、不自然すぎる。……もしかしたら、すでに」
 言葉を切って仁木緒は立ち上がり、六尺棒をつかみ直した。遺骸が背をあずけている岩陰へ、多紀満老人、泥蓮尼、千歳丸の三人を押しやった。

 丈の高い草をかき分け、左から四人。遺骸が吊るされた右の木陰から、烏帽子をかぶった武士三人が現れた。石地蔵を避けて仁木緒の正面に出て来たのは、錦行連である。
「……あッ」
 錦行連を指さして、千歳丸が悲鳴をあげた。
「と、伴家継さまッ」
「なんだと? こいつは錦行連だぞ」
 振り返った仁木緒の袖をつかみ、千歳丸は大きくかぶりを振った。
「いいえ、いいえッ。この人は伴家継……ッ。登任さまの遊興をあおった家司さまですッ」
「だまれッ、千歳丸ッ」
 太刀を抜くなり錦行連が切っ先を向ける。
「口を閉じておかねば殺すと警告したことを忘れたかッ」
 他の武士たちも太刀を抜いた。中には昨日、錦行連と共に泥濘をぶつけられた童顔の武士もいた。
「なるほど、おぬしは二つの名を使い分けて二人の主人を掛け持ちしていたというわけか」
 仁木緒は千歳丸を背にかばい、腰を沈めて六尺棒を構えた。狭い額に怒気を漂わせ、錦行連が口元に嘲笑をにじませる。
「佐伯仁木緒、おぬしと連れの三人、みなここで死肉となるがいい」
 背後では、震えあがった千歳丸が念仏の声を大きくしている。多紀満老人も数珠を鳴らす音を高くした。仁木緒は振り返らなかったが、誰かが動いたようだった。
 仁木緒はまじまじと錦行連らをながめた。袴と袖からぽたぽたと水滴が垂れている。八人の襲撃者のほとんどが、烏帽子や衣を濡らしていた。
「おぬしら、あの継橋を渡る途中、加茂川に落ちただろう」
「なんだと?」
「まるで濡れネズミだ」
 とっさに狩衣の袖と袴に目をやった錦行連に、身をかがめた姿勢で仁木緒は棒の先端を繰り出した。ハッと太刀を構え直す手首を竹の六尺棒で跳ね上げ、そのまま突進して棒先でみぞおちを突く。
 腰を沈めた姿勢のまま、右へ六尺棒を大きく振った。次の襲撃者の顔面に棒先を叩きこむ。ギャッとのけぞった男の影から、また一人、即座に斬りつけてくる。流れるような動作でそれも叩き伏せた。だが、左の目の端で振りかぶった太刀の刃が白く輝くのが見えた。右の襲撃を防いでいた仁木緒は、左半身ががら空きだった。
(……斬られる)
 左肩から胸までを斬り下げられるおのれの姿が脳裏に浮かぶ。背筋に緊張が走ったとき、カシンと乾いた金属音が響いた。
「仁木緒さま、お借りします」
 耳元で女の声がささやいた。墨染の衣がよりそっていた。いつのまにか泥蓮尼が仁木緒の腰の太刀を抜いて、左からの襲撃者の太刀をはじいたのだ。
 打撃は一瞬で、泥蓮尼は襲撃者の脇を走り抜ける。
 そのままうずくまっている錦行連の背後に回るなり、刃を首筋に突き付けた。
「争いはおやめ! 動いたらこの方の首をはねます。さあ、太刀を収めなさいッ」
 尼僧の意外な動きに、みぞおちをかばいながら錦行連は信じられずにいるようだった。そのときには多紀満老人と千歳丸もまた、泥蓮尼に加勢している。左右、背後から錦行連の体を押さえつけた。
「さあ! 太刀を収めなさい」
 泥蓮尼がくりかえす。襲撃者らがぎこちなく身じろぎした。
「ここは死者が眠る葬送の地……。騒がしくしては仏罰が下りましょう。仏さまに免じて、さあみなさま、お引き取り下さいませ」
 首根に刃を突き付けられ、自由を奪われて足を踏み鳴らしたのは錦行連だった。
「お、おのれ……ッ。このアマがッ、仏門にいる者が、人の命を奪えるものかッ」
「それは相手にもよる」
 聞き覚えのある、ぬるんとした声色が不意に耳を打つ。同時に、鉾を携えた放免・春駒丸が飛び込んでくる。童顔の武士がはじかれたように太刀を振りかぶり、春駒丸と刃を交えた。
 その動きが賊徒に戦いを決断させた。続いて検非違使の看督長・坂上田頭男と紀成房、そして文屋兼臣が現れるなり、気合声をあげて抜き身の太刀を振るいはじめた。
「文屋さまッ、成房どの」
「仁木緒、無事でなにより」
 一人の武士を斬り伏せて紀成房がうなずいた。腰を低めて太刀を構えて突進してきた男の足を仁木緒の六尺棒がなぎ払う。太刀先を油断なく男たちに向け、いつものぬるんとした目つきで文屋兼臣が仁木緒に説明した。
「庁に朝一番で、稲若がおぬしの文を届けたのだ。右京三条での放火殺人の一件……荒彦が犯人として差し出された事件……あれを担当したのはわしじゃ。ゆえに遺骸の再検分とあればここへ参らぬわけにもいかぬだろう」
 一人の武士が上段から斬りつけてくる。竹の六尺棒を横にして受け、仁木緒は力で押し返す。後方にたたらを踏む相手のみぞおちを強く蹴飛ばした。文屋兼臣もまた、左右からの襲撃をかわして太刀を振り回す。
「といっても、鳥辺野は広い。登任さまの邸で焼け死んだ者たちの遺骸がどこにあるのかは分からなかった。だが、六道の辻で伴家継が男たちを引き連れてやって来るのを見かけ、ここまで尾行つけたというわけじゃ。……このような仕儀に至ると予想しておれば、腕の立つ放免を十人ばかり率いてくるのだったな……」
「いえ、来ていただいて心強いです」
 賊の一人がまた、仁木緒の六尺棒の犠牲となって大地に転がった。
「検非違使とて容赦するなッ」
 泥蓮尼ら三人に拘束されている錦行連が唾を飛ばす。その罵声と動きのせいで、首筋の皮膚が浅く裂けて血が流れた。おのれがつかんでいる太刀が人を傷つけたことに、泥蓮尼は動じなかった。
「ここは鳥辺野。多くの仏さまがおわすあの世でございます。卑劣な不意打ちを仕掛けた方々が、無事にこの場を切り抜けられると思いめさるな」
 強く刃をのどにあてがわれ、錦行連ののどが「ぐうっ」という音を出した。それでも肩を揺らして仲間をけしかける。
「こ、この場で叩き斬ってしまえッ。数の上では我らが有利ッ」
 一人の武士を斬り伏せた文屋兼臣が振り返る。
「伴家継どの、おぬしがわしたちをここへ連れて来たといま説明したばかり」
 ずかずかと近寄るなり、遠慮のない態度で文屋兼臣が錦行連の耳をつねりあげた。
「何をするかッ」
「それはこちらの言い分じゃ。おぬしは確かに伴家継。ひと月前、右京三条の藤原登任さまの邸であった事件で状況説明を聞き取ったこの文屋兼臣を忘れたか?」
「文屋さま、こやつは刑部省の錦景時さまの従者で同族。名を錦行連と申しておりました。石川彦虫殺害にも関わっています」

 すでに地面には四人の男たちが倒れていた。仁木緒に打ち据えられた者もいれば、容赦のない坂上田頭男の太刀筋で血を流した者もいる。春駒丸の鉾に胸を貫かれた者もいた。傷にうめいていなければ、すでに絶命しているかもしれない。

 紀成房と春駒丸らが縄で男たちを縛り上げていく。そのかたわらで、仁木緒は言葉を続けた。
「こいつが伴家継の名を詐称していたとしたら辻褄が合います。おそらくわたしへのイヤガラセに石川彦虫は、荒彦脱獄を刑部省へ密告したのでしょう。そのとき錦行連は荒彦の身代わりに能原門継が儀式で足枷をつけられたと知ったのです。石川彦虫を暴行して死に至らしめたのも、そのあとわたしにつきまとって密殺しようとしたことも、主である錦景時さまへの忠節のためというのは口実で、本当は賊のおびと・能原門継を捕らえた、庁への報復だったのです」

「ふむ、刑部省の錦景時さまが検非違使庁を出るとき、わしは見送りをしなかった。もしもそのとき錦行連と顔を合わせていたら、こやつが伴家継と気づいて石川を死なせずにすんだかもしれぬ……。千歳丸とわしが証言しよう。伴家継が錦行連である、と。二つの名を使い分けていたとは、鬼神、悪霊に勝るとも劣らぬわい」
 苦々しく文屋兼臣がうめいた。縄をかけられてうずくまる錦行連は、顔をそむけているばかりだった。
「お借りしていた太刀をお返しします」
 袖で刃を包み、泥蓮尼が仁木緒に抜き身を捧げる姿勢になった。その柄を取ると、仁木緒は鞘に収めた。
「賊をかいくぐって行連に刃を突き付けた身のこなし、さながら舞うがごとしでしたな」
「御仏がお守りくださったのでしょう」
「なるほど、ご自分でなんとかしようと努力なさったから、御仏の加護があるわけだ」
 清廉なしぐさで合掌する泥蓮尼と仁木緒は、秘密めいた笑みを交わした。
 仁木緒は白布を巻いた竹の六尺棒を強くブンと振った。棒の先端を白骨が散らばる地面に突き立てた。
「牛飼いの千歳丸」
 呼ばれて、恐る恐るといった足取りで千歳丸がやって来る。
「四人の焼死者を見てなぜ涙を流した? あの中の一人が旧主・藤原登任さまだからではないのか?」
 ひざまずいた千歳丸が肩を震わせる。顔をうつむけて目元を手で押さえた。
「千歳丸、お前は二十年以上、藤原登任さまにお仕えしてきた。右京三条の邸で伎楽殿が放火されたとき、まっさきに消火するべく働いたのもお前だ。それほど忠義でありながら、家司の伴家継によって傷を負わせられ、解雇の憂き目にあった」
「…………こ、こいつらは、人間じゃねえ。凶事が立て続けに起これば邸が怪しまれる。だから、しばらくは生かしておいておいてやる……と抜かしたんだ。だからわっしは必死に気づかぬふりをしてきた。焼死者の一人が登任さまだということを……ッ」
 多紀満老人が千歳丸の肩に手をやって、むせび泣く手に手巾を握らせた。
「もし、余計なことをしゃべったら、かわいいとよめも、殺すぞと脅されて……。わっしはあの女を不幸な目にあわせたく、なかった……。それになにより、伴家継は、こいつは」
 千歳丸ははっきりと錦行連をにらみつけた。
「……刑部省のお役人にも顔が利く。刑部省は身内じゃと自慢を……。だから、わっしらの訴えなど、握りつぶされる、誰も相手にしないだろうって……。ご主人さまが、生きながら火に追われて殺されたというのに……ただ嘆くしか、できなかった……」
「それゆえ、検非違使庁にも訴えられなかったというわけか」
 文屋兼臣が苦々しくうめいた。
 白骨が散乱した地面に膝をつき、錦行連が前のめりの姿勢で罵声をあげた。
「だまれッ。卑しい牛飼いがッ。何が忠義じゃ! 陸奥での戦で敗北し、屈辱を胸にためているだけの無能な主の顔色をうかがい、機嫌を取らねばならぬやるせなさ! それがおぬしらに分るものかッ。伎楽殿で女に舞わせ、酒に逃げ、音曲に耽溺する主など、見ているだけで目が腐るわ! 陸奥から運んだ財が減るゆえ、邸内にて賭場を設けてやったのだ」

 官職から離れた藤原登任の収入源は違法な手段から得ていたのだろう。その憶測が裏付けされた。

 仁木緒は苦々しく舌打ちした。
「賭博が能原門継を呼び寄せたというわけか。錦行連が最初から『伴家継』などと偽名を使ったのは、いずれ藤原登任さまを陥れようと考えてのことだったのか」
「錦一族では末席のわしじゃ。十年前、陸奥から敗走してきた藤原登任は従者の多くを失っていた。ゆえに武門の一族・伴氏を名乗れば家司として採用されると踏んだまでじゃ」
「最初はただ仕官のために二つ名を使ったというわけか」
 ややぼうぜんと紀成房が錦行連をながめている。錦行連は薄笑いを浮かべた。
「仕えてみて、すぐに分かった。わしの才覚がなければ、藤原登任などただの愚物ということがな! 賭場に能原門継が出入りするようになったのは三年ばかり前からじゃ。ヤツは主の側女・さゆりに懸想したのだ。やがて任尊と実覚、僧侶二人が登任の邸に賭場があることを知った。……あの夜、ついに主は伎楽殿で門継に言った。『海賊にさゆりは渡さぬ。賭博についてもしかるべき筋に届けを出し、おのれは律(刑法)にそって潔く制裁を受ける』と。無能な主にそう告げさせたのはさゆりと二人の僧侶どもじゃ。わしも能原門継も逆上した。拒まれ続けた門継はさゆりを憎んだ。だから真っ先に刺したのだ」
「荒彦を犯人として差し出したのは、なぜだ」
「誰でもよかった。だが、あやつは陸奥の俘囚じゃ。都人とは違う獣の類よ。こういう役目がうってつけであろう。抗弁できぬよう無理やり口をこじあけて熱湯をのどに流し込んでやったのだ」
「主とその息子たちだけでなく、荒彦の母親を殺した挙句、その所業か」
 足をあげて仁木緒が錦行連を蹴りつける。二度三度と強く蹴られて、ついに錦行連は血を吐いてうずくまった。紀成房が止めなかったら、蹴り殺していたかもしれない。

 文屋兼臣の視線を泥蓮尼からさえぎるように、多紀満老人がさっと前に出た。
「すべては、あの海賊が悪いのです……。能原門継は船荷を奪い、我が息子夫婦だけでなく多くの人を殺したのですッ」
「そして伴家継と共謀し、いまも登任さまの邸に能原の手下どもが住み着いているというわけか」
 紀成房がつぶやいた。
「藤原登任さまは出家し、ご謹慎していると世間に吹聴しておけば、その邸に賊が潜伏しているなどと誰が気づきましょう」
 千歳丸と多紀満老人が口々に訴える。
「そこへこの尼君さまが現れたのです」
 泥蓮尼を手で示した。それから忙しく頭の包帯を押さえた。
「わっしの傷を癒し、悩みを聞いてくださった」
「そして能原門継をおびき出し、検非違使庁へ差し出すための策をたててくださった」
「お、おのれっ……泥蓮尼ッ」
 錦行連が縄目に拘束された肩をゆすって歯をむき出した。
「お前は一体、何者じゃッ。お前こそ、狐狸妖怪の類ではないのかッ」
「凶賊が何を言いやがる」
 仁木緒が錦行連を怒鳴りつけた。
「荒彦は……」
 縛り上げられたすべての賊を見回して、紀成房が仁木緒にささやいた。
「ところで荒彦はどこじゃ? 男たちの中にはおらなんだが……」
 てっきり賊の中にまぎれていると思い込んでいたらしい。仁木緒より先に、文屋兼臣が口を開く。
「荒彦は濡れ衣であったのだ。伴家継……いや錦行連。この男は検非違使庁から調べに赴いたこのわしに、虚偽を書かせた張本人!」
 無気力な普段の様子とはまったく別の激高した文屋兼臣の声色である。
「こやつめ、よくもわしの調書しらべがきに、でたらめを書かせおって……っ。検非違使をごまかすとどういう目にあうか、思い知らせてやる!」
 それが引き上げの合図になった。
 坂上田頭男と春駒丸、紀成房が捕縛した賊たちの縄を取り、背を向ける。
 八人の襲撃者の内三人が絶命し、残り全員が手傷を負っていた。遺骸はその場に放置され、負傷した賊たちは両手を拘束する縄を引かれて重い足取りで去って行く。

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