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検非違使別件 九 ⑰

 仁木緒もまた、泥蓮尼、千歳丸と多紀満老人と共に歩き出した。
 風が木の枝を揺らしている。足元に芽吹いた草が、小さな石の地蔵尊や白骨を覆い隠している。
 しばらく坂道を進んでから、六道の辻の寺社の伽藍が見える場所に出ると仁木緒は振り返った。

 千歳丸と多紀満老人らが仁木緒の視線に射すくめられて佇立している。三人の顔を順に見やり、仁木緒は静かに問いかけた。三人にだけ聞こえるように。
「あなたたちは、荒彦をどこへ隠したのです?」
 ギクリと身をすくませたのは多紀満老人と千歳丸だった。その態度が仁木緒の憶測に自信を与えた。泥蓮尼の顔色に影が差したようだった
「着鈦の政……。あの前日にあなたたちは荒彦が収容されている左獄を下見していた。荒彦を連れ去り、その身代わりに能原門継を出現させるために。……泥蓮尼、多紀満、千歳丸、とよめ、ゆずか。この五人が結託し、力をあわせた。違いますか?」

 着鈦の政の前日、見回りに近づいて来た仁木緒に気づき、とっさに泥蓮尼の周囲にむらがってその場をごまかしたのだ。

「人の道に背いたつもりはございませぬ」
 やや眠そうな厚ぼったいまぶたを上げて、多紀満老人がこちらを見上げる。
「怨霊のたたりがこの世にあるなら、神仏のありがたさもまた、この世にありましょう。それを信じていないのですか? 非力なわしらがこのような恐ろしいことに関わり、しかもここまで成功したということは、これこそ御仏のお導き……。海賊らは仏罰を受け、霊たちはなぐさめられております」
「そうかもしれない」
 ぽつりと仁木緒はつぶやいた。四人は立ち止まったまま、道の前方を見やった。賊たちが検非違使に囲まれて遠ざかっていく。

「だが、荒彦はどこにいるんです」
 これははっきりと泥蓮尼に向けた問いかけだった。泥蓮尼はゆっくりとまばたきした。
「聞いてどうしますの? 能原門継と伴家継は伎楽殿を放火し、四人を殺害しました。その罪を着せるべく、荒彦は熱湯でのどをつぶされて検非違使庁に差し出されたのです」
「……気の毒な少年だ」
「見つけ出して、獄へお戻しになりますか?」
「そんなことはしない」
 仁木緒は強く頭を振った。多紀満老人が心配そうに身じろぎしている。仁木緒は泥蓮尼の前に一歩近づいた。
「獄舎での暮らしとのどの火傷のせいで、荒彦はろくに食事もとれず、著しく体を壊してしまったのでしょう。脱獄させるだけで体力は尽きていたはず。もしや、すでに……」
「まだ生きています」
 泥蓮尼の語気は強かった。荒彦を死なせるものかと歯を食いしばっているかのように。
「ゆずかとあなたが多紀満どのの家から消えたあと、おれはあなたの寺に踏み込んだのです。あのとき、荒彦はいなかった。衰弱がひどい荒彦をずっと病臥させられる場所……。たったいま思いつきましたよ」
 仁木緒は視線を移動させ、まじまじと多紀満老人をながめた。多紀満老人がかしこまって丁寧に頭を下げる。
「お察しの通りでございます。ずっと、わしの家の奥の曹司で病臥しております」
 仁木緒は舌打ちするべきなのか、笑いだすべきなのか分からなかった。小泉庄で千歳丸と面会している間、廊下一本へだてた曹司で荒彦は休んでいたのだ。ゆずかを連れて泥蓮尼が行方をくらましたのは、子どものゆずかの口から荒彦の居場所がもれることを恐れたためと、仁木緒を荒彦から遠ざける必要があったからだ。
 仁木緒は泥蓮尼に一歩近づいた。
「荒彦にとって、あなたは何者なのです」

 舞姫さゆりは荒彦の母だと聞いている。そのさゆりは能原門継自身が「殺した」と言ったのだ。その遺骸はたったいま、この目で確かめた。

 尼僧頭巾に手を伸ばした。泥蓮尼はその手を振り払わなかった。頭部を覆っている尼僧頭巾が取られると、それまで布で隠されていたたっぷりとした黒髪が肩に流れた。
 肩のあたりで切りそろえる『尼削ぎ』よりも長さがあり、頭髪は背中に流れている。尼僧頭巾がなかったら、尼とは通用しないだろう。
「おれが見た舞姫のさゆり……。それがあなたなのは、薄々察していました」
 舞姫の仮面のように濃い化粧と額に描いた翡翠色の花鈿かでんさえなかったら、尼僧の顔立ちにすぐ思い当たったことだろう。
「ゆずかには、舞を舞うときご自分を『さゆり』と呼ばせていたのですか?」
「はい。舞の上手を演じるために、母の霊をこの身に降ろすことを念じました。そして、母の命をあのとき確かに生きたのです」
「母? ではあなたと荒彦は」
「十年前、藤原登任さまは陸奥国から敗走するときに、都まで連れ去ったのです。わたしと弟、そして母のさゆりを……人質として」

 鳥辺野の葬送地にあって、仁木緒は一瞬、陸奥国の風を感じた。

 戦の原因は、陸奥国奥六郡より南、磐井郡の河崎、小松、石川の三つのさく(行政、軍事の拠点)を営んでいる安倍一族が、衣川の関の南まで越境してきたために、当時の陸奥守であった藤原登任と対立したのである。
 陸奥国府・多賀城から出陣し、鬼切部で藤原登任は大敗。

 これが奥州十二年合戦(前九年の役)の最初の戦闘である。

 この大敗の責任を問われ、藤原登任は更迭。後任として武名高い源頼義みなもとのよりよしが陸奥守に任じられた。
 朝廷の源頼義の信任と期待は厚く、鎮守府将軍を兼務させている。陸奥守と鎮守府将軍を兼ねたのは桓武帝のころの坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろ以来である。征夷大将軍と同格の栄誉職「鎮守府将軍」に源氏の武家が任じられたのは、この源頼義が最初だった。

 もっとも、その翌年に上東門院彰子の病平癒の祈願のために大赦が発令されている。この大赦は国司に対する戦闘の罪も不問に付す恩赦だった。

 安倍一族の長、安倍頼良あべのよりよしは恩赦を喜び、新しい国守となった源頼義と同じ音で「よりよし」の名乗りを遠慮して「頼時よりとき」と改名。源頼義に臣下の礼をとった。

 陸奥権守むつのごんのかみ(国守の補佐役)として下向した官人たちが土着し、その子や孫が現地の豪族に成長することも稀ではない。安倍頼時(頼良)も在庁官人の安倍忠良ただよし(忠好とも表記)の血を引いていた。
 敗軍の将として陸奥国を去る藤原登任に従い、母のさゆりと一緒に泥蓮尼と荒彦の姉弟は京へ上ったのである。

「人質とは……。なぜ?」
「登任さまより先々代の陸奥守さまの愛妾が、わたくしの母だったからです」

 藤原登任の前任者は源頼清といい、一年そこそこしか陸奥守を勤めていない。文官として優秀だった源頼清は源頼義の弟である。
 対照的に、源頼清より先代の藤原頼宣よりのぶは長元九年(一〇三六)から長久四年(一〇四三)の七年間を陸奥守として勤めあげている。
 藤原頼宣の父は藤原宣考のぶたかといい、官位は正五位下。複数いる宣考の妻の一人は、源氏物語の作者・紫式部である。
 御堂関白と異名をとった藤原道長の側近として名高い平重義の娘を藤原頼宣は正妻とし、舅である平重義の兄弟は陸奥守を歴任していた。そういう縁故があって藤原頼宣よりのぶは陸奥守を七年という長期間、勤めたのかもしれなかった。

「……つまり、あなたは、よりのぶさまの落としだね……」
 陸奥国を辺境とあなどるな、宋の舞踏を心得る女もいよう……。以前、文屋兼臣が言っていたことである。
 容姿のみならず、亡きさゆりが舞踏の魅力を持って藤原頼宣よりのぶの寵愛を得た結果、泥蓮尼と荒彦がこの世に生を受けたのだ。
 そして、七年という長期にわたって藤原頼宣が大国・陸奥の統治にたずさわることができたのは、陸奥権守(国守の補佐役)に有能な安倍忠良(頼時の父)が就いていたからである。

「わたくしにとっては、顔も覚えておらぬ父、頼宣さまでございます」
 父への憧憬はまったくない声色だった。
「鬼切部での負け戦で、街道は混乱が予想されました。藤原登任さまは安倍一族の追っ手がかかることを恐れておいででした。当時、わたくしは九つ。荒彦は七つ」
 安倍一族の長である安倍頼時の父親が安倍忠良(忠好)なのだ。
 安倍頼時にとって舞姫さゆりは、父親が上役としてあおいでいた藤原頼宣に情をかけられた女である。しかも、その血を引いた二人の子どもまでいる。
 敗走する街道筋で、追撃をかわすための人質……。
 陸奥での戦火と敗北、任地を退出するときの危機感は藤原登任にとって大きな重圧だったのだろう。過去の国守の情けを受けて子を産み、捨てられた女とその子らを人質にしなければ、なだめられないほど。

「都で右京三条の邸に入ったころには、母は登任さまの側女としてお仕えする立場に置かれました。舞の手ほどきは、わたくしも母から受けておりました」
「錦行連……邸では伴家継と名乗っていたあの男は、そのことを?」
「古参の家司じゃありません」
 鼻をすすりながら千歳丸が口を入れた。
「あのころ、失脚した登任さまは従者に見限られ、多くの者が去って行きましたもので……。それになにより、陸奥での戦いで多くの武士を失い、新たに雇い入れる必要があったのです」
「とにかく、あの男とは入れ違いにわたくしは邸を出ておりました」
「そのとき仏門に……」
 泥蓮尼がうなずいた。
「母が勧めたのです。……まだ幼い荒彦は身近に置く、稚児を好まぬ登任さまは手をつけまい……けれど、ゆりかはいずれ伽に呼ばれよう。それを拒むことは許されまい。身を護るために、母の分まで御仏にすがりなさい……。そうさとされ、十年前に小泉庄の翔蓮尼さまのもとへ」
「ゆりか……?」
「わたくしの名です」
 ゆりか、ゆりか……と仁木緒は胸の中でくりかえした。

  陸奥国ではいまだ、内乱がくすぶっている。
 五年前の天喜四年(一〇五六)。藤原登任の後任であった陸奥守・鎮守府将軍・源頼義が任期の終了を目前にして陸奥に緊張が走った。豪族たちの利権争いである。
 安倍頼時が臣従している源頼義が陸奥を退出した場合、再び安倍一族が陸奥の利権を掌握するのは目に見えていた。地方の豪族化した在庁官人にとって、安部頼時の風下に置かれるのは面白くない。源頼義さまに任期延長していただき、安倍一族を押さえていただかねば……という彼らの思惑が錯綜し、野心と陰謀が源頼義の周囲で渦巻いたらしい。
 源頼義もまた、鎮守府を見おろす地に安倍一族の本拠地・鳥海柵とりみのさくがあることは気に入らないことだった。しかも、鎮守府将軍であるのに鳥海柵に立ち入ることを拒まれてきたという屈辱がある。陸奥を離れる前に、安部一族を「叩いておこう」と思い立つ材料がそろっていた。
 だから「安倍頼時の嫡男・貞任さだとうが阿久戸にて人馬を殺傷する事件を起こした」という密告を受け、安倍頼時に「貞任を引き渡せ。国守として罰する」と命じたのだ。
 内戦の火種をつつき回すことで、改めて安倍頼時に息子を差し出させて屈服させ、武門の名誉を得た上で朝廷から実力を認めてもらい、陸奥守の任期延長を目論んだのである。
 しかし、予想に反して安倍頼時は貞任を差し出すことはなかった。衣川の関を閉じて立て籠もった。
 国守(受領)はその国に土着するわけではない。豪族と争ったとしても領土を得られるわけでもない。むしろ安定した統治を朝廷に認めてもらい、官位および官職の上昇を望むものである。任地の混乱をもたらす戦を受領が仕掛ける、というのはあってはならぬ異常事態だ。
 源頼義はその異常事態を自らの手で引き起こしてしまった。
 鎮守府将軍の威光に安倍頼時が圧倒され、屈服すると過信していたのだ、源頼義は。
 安倍一族が抗戦の構えをとったことにあわてて、朝廷から「安倍頼時追討の宣旨」を得ている。
 天喜五年(一〇五七)七月に、安倍頼時が戦死。嫡男の貞任が『俘囚の長』となった。そしてその年の十一月、黄海おみ合戦。安倍貞任は源頼義に勝利し、奥六郡の実権を掌握。
 陸奥守であり鎮守府将軍の源頼義はその肩書きの重さゆえに、安倍一族を滅ぼさずにはいられない瀬戸際である。
 陸奥ではいまだ、そういう緊張感が続いている。

  京にある佐伯仁木緒にとっては遠い陸奥国での内乱ではあったが、看過できない気分だった。
 もともと武をもって帝に仕えた佐伯一族であるからかもしれない。
 目の前に俘囚の出自を持つ泥蓮尼がいるせいかもしれない。
「能原門継……。あの男をどうやって捕らえ、儀式前にあの枯れ井戸のそばに出現させたのです」
「それはわしからご説明いたしましょう」
 多紀満老人が静かに吐息をついた。
「泥蓮尼さまは仏門の師である翔蓮尼さま亡きあと、小泉庄の尼寺にてたった一人でお暮しになり、孫のゆずかに笛の教授をなさってくださいました。そのご縁でわしの倅夫婦とも親しかったのです。二人が能原門継によって命を奪われたことを、共にお嘆きくださった……」
「多紀満どのの家族が受難したことで、わたくしも母と弟が気になって、右京三条の邸を訪ねるようになりました。……といっても、人目につくような訪問は慎まねばならぬ出家の身。あらかじめ日を決めて、寺社で待ち合わせて三人で散策する程度のことでございます」

 多紀満老人の息子夫婦が瀬戸内海へ商用で出たとき、能原門継に殺されたのは三年前。そのころから先月まで、かりそめにも母のさゆりと弟の荒彦、泥蓮尼は穏やかなひとときを得ることができたらしい。

「そういう逢瀬のおり、母から能原門継が邸に出入りしていると知りました」
「人相は三つのほくろが眉間と左右の眉の上ある髭面の大男……。能原門継に違いない。泥蓮尼さまから聞いて、わしは右京三条の邸を見張るようになったのです。ゆずかの父と母を奪い、のうのうと貴族の邸に出入りするとは何事か……ッ! ただ遠目ににらみつけるだけのつもりが、いつのまにか刃物を隠し持って能原門継を付け狙う始末。……あのとき泥蓮尼さまに止められなかったら、わしは返り討ちにあい、ゆずかは天涯孤独の身となっていたことでしょう」
「あの悪党と刺し違える覚悟だったのか。なぜ、そのとき検非違使庁へ訴えなかった」
「畏れながら……刑部省は名ばかり。検非違使庁もまた上つ方々のお考えで、罪人の刑を寛大にしていらっしゃる。何人もの命を奪った能原門継が捕らわれたとて、重くて遠流。しかも、刑が執行される前に恩赦があれば獄から放たれましょう。そうなったとき、訴人を逆恨みしてわしとゆずかの前に現れぬともかぎりませぬ……」
 予想通りとはいえ、こうはっきり面と向かって庁の在り方を否定されるのは居心地悪かった。仁木緒はため息しか出ない。
「そして先月、あの火事が……」
 温和な老人の顔がゆがみ、呼吸を荒げる。
「あのとき泥蓮尼さまがお止めにならなかったら、能原門継によってわしが返り討ちにされたでしょう。ゆえに、泥蓮尼さまはわしの命の恩人。……しかし、その恩人であるお方の母上と弟御が、あのような受難にあってしまった……。無念でなりません」
 多紀満老人と泥蓮尼が手を取り合った。
「四人の焼死者を出したあの事件で、放火殺人犯として検非違使に差し出され、荒彦は獄につながれました。わたくしは、なんとしても荒彦を救い出したかった。だから、巫術を心得る尼僧を装って邸に近づいたのです」
「この多紀満もご一緒しました。あらかじめ邸の庭に硯などを埋めておき、それを泥蓮尼さまがご祈祷にてどこにあるかを透視して見つけ出す……。あるいは新参者の召使いに金をやって邸を出奔させ、泥蓮尼さまがご祈祷し終わったころに帰ってこさせて『狐にさらわれておりました』と詫びを入れさせる……」
「わっしもですよ」
 やや誇らしげに、千歳丸が自分の鼻先を指さした。
「とよめの家が近いもんですからずいぶん前から多紀満どのとは顔見知りでしてね。なにより、伴家継に放逐されたのが気に食わなかった。浄霊祈祷と失せものを探す神通力を持つお方として、泥蓮尼さまの名を右京三条で吹聴し、邸にいる無頼者たちに信じさせたのでございますよ」
「で、その策に賊たちははまったわけだ」
 思わず仁木緒は笑い声になった。
「はい、最後の仕上げは着鈦の政の前日でございます。あらかじめ、獄中の荒彦には笛を持たせておきました。そのとき、佐伯さまが見回りにいらしたのです」
 左獄を振り仰いだ泥蓮尼の緊張感を思い出し、仁木緒は納得した。
 舞姫の袖布から笛を突き出して、さも笛吹童子がそこに隠れていると誤解させるための細工。舞の心得があったとしても、母さゆりのごとく上手に舞踏を踏むことができるのか。その全てがうまくゆくか、どうか。
 荒彦を救い出すためとはいえ、不安におののく心を強く叱咤していたのだ。
「そのあと、わたくしは右京三条の邸へ入り、いよいよ神がかった調子で能原門継を指さしたのです。『悪霊がついている。すぐわれのもとで祈祷を受けよ』と」
 泥蓮尼は『悪霊』と『祈祷を受けよ』の声色を低く太く発声した。たったそれだけで、鳥辺野という場がいきなり異界に変化した心地である。仁木緒は背筋がぞくりとした。
「なるほど、ああいう男は心当たりが多いから、神がかったいつわりにころりとだまされるのかもしれぬ」
「ええ、あとは獄舎近くの小さな借家に一人で来るように言いつけました。借家では、ご祈祷前に神酒で体内を清めるためといつわり、ごく少量のフグ毒を混ぜた酒を飲ませたのです」
「フグの毒だと?」
 ぎょっと目をむいて、善良そうな三人の顔を思わず仁木緒はのぞきこんだ。
「よくあいつは死ななかったな」
「悪運が強いのでしょう」
 盃を干すそぶりと首をおのれの手でしめる動きを交えて千歳丸が苦笑した。多紀満老人もまた、うなずいている。
「小指の先ほどもない、ごく少量でございます。全身がしびれ、動けなくなっただけなのが……残念です」
「極悪人とはいえ、命を奪ってはあなたたちが地獄へ堕ちてしまいます。これで、よかったのですよ」
 泥蓮尼が多紀満老人をたしなめた。
 仁木緒はいま耳にしたことを一つ一つ反芻してみた。
「身動きできぬ能原門継を、あなたたちは儀式前にあの枯れ井戸に隠した。舞姫が群衆の耳目を奪っている間に囚人の列のそばに近づく。そして舞姫の袖布が荒彦を隠したとき、枯れ井戸から千歳丸と多紀満どのが二人がかりで能原門継を引き上げたというわけか」
「舞姫の袖布から笛がちらりと見えたとき、さも荒彦が笛吹童子のゆずかであるかのように周囲ではやし立てたのも、わしらでございます」
 仁木緒はうなずいた。
「あの袖布で荒彦をくるんで連れ去ったのは分かった。だが、人目を引く舞衣装のまま小泉庄までたどり着いたわけではあるまい?」
「ええ、とよめさんが路地裏で着替えを用意して待っていてくれたのです」
「だから杳として行方が知れなかったわけだ。ところで、あのときの舞衣装はどこから入手したんだ?」
 すべての疑問を解消せずにはおけない気分で問いかけた。
「右京三条の登任さまの邸に巫術が巧みな尼僧として出入りするうちに、亡き母が使っていた曹司に入る機会があったのですわ。そこに母が残した舞衣装がありました。形見として手に入れて、あのとき身にまとったのです」
「……そしてまんまと荒彦を脱獄させた。能原門継を置き土産に」
「だって、本当ならあの男が囚人として獄につながれるべきですもの。わたくしたちは必死だったのでございます」
 泥蓮尼がなじるような口ぶりになる。満足そうに仁木緒がほほ笑んでいることを、不謹慎だと感じたのかもしれない。
「いや、笑ったのはあなたたちのことじゃない。それを堂々と荒彦の代役として儀式に出させたおれも、どうかしていたな……と思ったんだ」
「それこそ、神仏の思し召しかもしれません」
 泥蓮尼は仁木緒に、影のあるまなざしを注いでいる。
「荒彦は……のどの火傷が癒えず、薄い粥しか口にできません。不幸な子です。……母とともに俘囚という出自で蔑まれ、つらい思いばかり……。弟の命は、もうあとわずかです」

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