【現代表記】 「西洋事情」(ロシア 政治) 福沢諭吉
底本には小泉信三監修『福澤諭吉全集』第一巻(再版)所収の「西洋事情󠄁」を使用した。
西洋事情二編 巻之二
魯西亜
政治
魯西亜に於ては生殺与奪の横柄、帝の一手に在り。固より古来の流風に従い、各等の人に其身分を許し、妄に人心に戻るを得ずと雖ども、法を以て論ずれば、帝の権威には分限なく、帝の存意は即ち国の法なり。1811年第1世アレキサンドル新令を下だして、魯西亜の国法は帝位よりも貴しとの旨を布告し、セネート官員(下に詳なり)をして忌諱なく建言せしめ、天下の詔と雖どもこれを論破すべき権を許したれども、其名ありて実なく、此新令を以て未だ魯君の特権を制するに足らず。抑も方今魯西亜の形勢を察するに、今の政体を廃しなば、他に採用す可き策略なかる可し。即ち今の政体は下民一般の悦ぶ所なれば、其民心に反して政を施す可らざるは固より論を俟たず。且国民の為めに謀りても、政治一途に出でて威権赫々たるに非ざれば、其開化を進め其安全を保するの術なし。無数の群民、産なく知なく又威力なし。此小民を支配する政府にして、其政権を国内の貴族等に分たば、民の暴政に苦しむこと今日に百倍し、遂にはポーランドの轍を踏で国を亡すこと必せり。右の如く国帝の権威特に盛なりと雖ども、上下共に其所を失わず、開化日にすすみ文明月に新にして、文学技芸の士君子、次第に増加せり。帝の恐るる所の者は唯貴族にして下民に非らず。下民は常に帝を尊ぶこと神の如し。1862年より65年に至るまでの間に国内売奴の法を廃したるも、小民の悦ぶ所にして、貴族等はこれが為め大に権を落せり。今日の事情を以て考るに、魯西亜の如き国を治るには、唯文明開化の特権を盛にするの一策に在るのみ。今魯西亜に於て遽に衆庶会議の政を施さんとするも、名は衆庶にして実は衆庶ならず、徒に無用の人に無用の権威を附与し、国の為めに益なきこと、猶英吉利に於て君上特権の政を行うが如くなる可し。(文明開化の特権とは、君上の特権を以て下民を保護し、これを文明に導て修徳開知の趣意を知らしめ、強大を抑え弱小を揚げ、人々をして独立不羈ならしめんがため、或は君上の暴威を逞うすることあるを云う。支那人の口吻に云える如く、之に由らしめ之を知らしめずとて、権謀術数以て下民を愚にし、民を視ること土芥の如くして、独り君上政府の威光を張るには非らず。是即ち魯西亜と支那と、其風俗相同じからずして強弱相敵せざる所以なる乎。
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