令和版走れメロス 〜電子マネーと和解せよ〜

 ぽたみは激怒した。駐輪場の自動精算機はなぜ現金のみなのか。


 ぽたみは親元を離れ1人で暮らす一介の大学生である。その日も真面目に大学で授業を受け、自転車に乗って家に帰る途中新しい眼鏡を買うために街に繰り出した。

 眼鏡屋に踏み入れると、色形が様々なフレームが目に飛び込んでくる。
卵形に台形、黒や青、ピンクなどヴァラエティに富んでおり眼鏡人口が拡大していることを実感した。
 全人類眼鏡化計画のもと、スマートフォンやパソコンが普及してきたという陰謀論もあながち間違いではないかもしれない。

 少しだけ縦長の円で、下に向かうにつれて緑のグラデーションがかかっているフレームを手に取り、元々掛けていた眼鏡を外しそのフレームを掛けてみる。
 しかし裸眼の視力が極めて悪いため、顔を鏡に写してみてもそのフレームが自身に合っているのか全く分からない。
 店員が寄ってきて「お客様の顔の形には、そのフレームはよくお似合いですね。今シーズンの新作なんです」と声を掛けてきたが、フレームが実際に似合っているのか、それともなんとしても眼鏡を売りたいがために少々苦しいお世辞を言っているのか判断しかねた。
 自撮り写真で顔を確認することもできたが、ここでスマホを取り出して自撮りを始めたら明らかにおかしいよな、と思い直す。
 結局店員の「お似合い」の4文字に全幅の信頼を与え、そのフレームで眼鏡を作ることにした。


 眼鏡が出来上がったのは眼鏡を選び始めてから2時間ほど後だった。フレームを決めた後視力測定を行って適切な度のレンズを選び、店員がそのレンズをフレームに合わせて加工した。
 眼鏡が仕上がる時間に再び店に行き、簡単なフィッティングと代金の支払いを済ませ、店を出た。外の景色が今までより少しだけ鮮明になった喜びと、視力が落ちたことを実感した悲しみとがだいたい3:1の割合で混ざる。
 コーヒーとミルクであれば、おいしいカフェオレができていただろう。

 意気揚々と駐輪場に向かい、帰路に着こうとした。自身の自転車の番号を精算機に打ち込むと「200円」と表示された。


 ぽたみは激怒した。駐輪場の自動精算機はなぜ現金のみなのか。


 その駐輪場は2時間まで無料だったが、眼鏡作りが長引いたため数分過ぎてしまったらしい。普段そこに自転車を停めるときは必ず2時間以内で出庫するので、この「2時間ルール」は完全に頭から抜けていた。

 ぽたみは財布を家に忘れたことに気がついていたが、その眼鏡店は電子マネーに対応していたため、スマホで支払いすることができたのである。

 その時、既に夜の21時近く。駐輪場は23時半で閉まり、開くのは翌朝。明日出庫すれば、かなり高額な駐輪代がかかってしまう。現金を確保し、23時半までに再び戻らなければならない。

「無二の親友、セリヌンティウス号よ。私は必ずここへ戻ってくる。」

 と心の中でつぶやき、矢の如く歩き出した。バスや電車で家に戻った方が早い上楽であることは分かっていたが、その交通費が惜しくなってしまった。必死で歩けば間に合う算段であった。

 小雨が降っていたがそれをものともせず、街を出て、大きな川を越えて、ひたすら直線の道を早歩きで歩いた。
 碁盤の目状になっている街に住んでいることを恨んだ。曲がった道がなく、東西と南北に伸びた道がやたらに交差するので信号機が多い。進みたいのに進めないもどかしさが焦燥感を掻き立てる。ぽたみは真面目な男なので、いかなる時もコンプライアンス重視であった。

 市営バスが嘲笑うかのように横を通り去っていく。次のバス停で家まで乗ってしまおうか、と何度考えたことだろうか。しかしここでバスに乗ればさらにお金がかかってしまう。
「バス代230円があれば少し高いアイスが食べられる」と考えて誘惑を断ち切った。彼は無類の甘党だったことが功を奏した。

 あとバス停が5つ。あとバス停が4つ。少しずつ縮まる家への距離、進む時間。運動不足がたたって数十分歩いただけで張ってきた足に鞭打って歩を進める。

 24時間営業の牛丼屋が見えてきた。彼の自宅はすぐそばまで来た。夕飯を食べていなかったため店の外にかかる新作牛丼のポスターに胃袋ごと吸い寄せられそうなのを堪え、牛丼屋を右に曲がり、そしてすぐに左に進路を切った。
 

 思わず小走りになって、ようやく、自宅の前に立った。

 時間を見ると22時。

 忘れてきた財布は鞄にしまった。今家を出れば余裕で間に合う。夕飯を食べるほどの時間はないが少し休憩できる。

 家に入ると、通販で買ったばかりの新作漫画を開いた。美しい作画と緊張感のあるストーリーにすぐに入り込んでしまう。駐輪場の閉鎖時間も忘れて夢中で頁をめくっていると一冊全て読み切ってしまった。


 

 その時、22時半をかなり過ぎていた。南無三、もう徒歩では間に合わぬ。

「もったいないが、これも時間に間に合うためだ!」
彼はバスに乗って、駐輪場のある繁華街へ向かった。

 労なく、かつ素早く復路は終わった。文明の利器とはなんと素晴らしいことか!お金があればなんと生活が楽になることか!とその時ばかりは現代社会を手放しで礼賛した。

 時間は23時を少し過ぎた頃。およそ2時間ぶりに無二の親友、セリヌンティウス号と先程名付けたクロスバイクに対面する。

 「よくぞ私を疑うことなくここで待っていてくれた!」
と彼は自転車に感謝したが、自転車は黙ったままである。

 駐輪番号は再び確認しなくてももう覚えている。自動精算機に番号を入力すると「400円」と表示された。現金を入れると、ガチャン、という音と共に自転車のロックが解除された。

 深夜の街中には人がまばらにしかいない。人の目を気にせず「よし」とつぶやき、軽くガッツポーズをした。

 時間に間に合って緊張の糸が緩むと、急に空腹感がやってきた。
家に帰ったら何を食べようか。家の冷蔵庫の中身を思い出すと、料理を作れるくらいの材料は残っている。しかし、家につけば0時近くなるだろう。疲労困憊な上この深夜に料理をすることを想像するだけで気が重くなった。

 

自転車に乗って家へと向かった。

家に帰る前に牛丼屋に寄って新作牛丼にサラダと豚汁をセットに付けたら、節約した駐輪代はすべて吹き飛んだ。






 



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