窓は開けておくんだよ

 夜、何もやることがないまま、けれども寝る気にもなれなくて、放心状態でネットサーフィンをしていたら日が昇っていた、ということが往々にしてある。ネットサーフィンという言葉は最早死語だが、危険を顧みず夜な夜な波に乗るサーファーが持つ精神的な危うさというか、浮遊感というか、フィッシュマンズの音楽のような、退廃的かつ透明なニュアンスを持つ言葉を纏っているのは案外理に適っているのではないか。実際は夜中に背を丸めてパソコンで検索をしているだけで、なんだか仰々しい気もするが、心の内に抱えるものはそれに近いものがあるのではないか。

 午前三時。この部屋で一番大きい窓が、炭のように艶がなく暗い空を四角く切り取っている。原因は分からないが、部屋を密閉しているとエアコンからぽたぽたと音がして気が散るので、五センチほど窓を開けている。男はその狭い部屋の中で、ひたすらにキーボードを叩いては小さなモニターを凝視していた。彼の体型はサーファーのそれとは似ても似つかずぶくぶくと太っているが、真夜中の心情においてのみ共通していた。空っぽになっていく自分を満たそうと体が勝手に動くのだが、身を任せることでかえって自分を見失いそうになる。ぼんやりと光る何かに縋りながら渡り歩かなければ、闇夜を乗り切るのは難しいのだ。

 男はモニターに違和感を感じた。小さな蠅が止まっている。彼は脂の乗った指で蠅を潰そうとしたが、流石に躊躇してティッシュペーパーを一枚手に取った。その瞬間、蠅はモニターから飛び立ち、眼鏡のレンズに止まった。彼の手は反射的に動いたが、運悪くレンズに死骸がこびり付いた。ティッシュペーパーの目は粗く、レンズを傷付ける虞がある。彼は落ち着きを取り戻し、水で死骸を洗い落としてからクロスで全体を拭いた。死骸はなかなか排水溝に辿り着かずに、シンクの底を彷徨っていた。

 男は眼鏡をかけなおし、伸びのついでに部屋全体を見回した。部屋に入ってきたのはどうやら一匹だけではなさそうだ。ブラウン運動よろしく飛び回る蠅や蚊を目視で追ってはタイミングよく両手を叩く。この調子では、快適な部屋が台無しだ。普通のエアコンは部屋を閉じきっていても間抜けな音を出すことはないと思うと、急に苛立ってきた。このような状況に身を置かれて、エアコンという文明が生み出した傑作をごく当たり前に保有する隣人や任意の幸福な核家族に対して、憎しみや嫉妬を向けずにいられようか。なぜ自のだけがこんな真夜中に外れ籤を引かなければならないのか、その場限りでは答えの出しようがなかった。頭の奥が嫌に蒸し暑くなった。

 男は十匹ほどの虫けらを潰して、ふと窓の方を見た。虫はおそらく、この部屋から窓へ流れ出る光のせいで入ってくるのだ。単純なことながら全てに合点がいった彼はカーテンを閉じた。足元のサッシには標本のような蚊が転がっていて、掃除機は、夜中にしてはあまりに耳障りな雑音を部屋に響かせながら、生死問わずそれを屑と埃の塊に加えた。今の彼には不思議と、同情する余裕があった。虫も好きでこの部屋に入ってきたのではあるまい。だが、郷に入っては郷に従えという。それを分からず入ってきたのならば気の毒と思うことでしか、こちらは同情できないのだ。

 後ろで、建物が軋む低音が聞こえた。はっと振り返ると、そこは普段の部屋だった。蠅や蚊はもういない。不眠だ。聞こえるはずのない音が聞こえてもおかしくはない。意識も朦朧としてきた。このままベッドに飛び込んでしまえば入眠ではなく気絶とみなされるだろうが、最早どちらでもよい。

 再び、建物が音を立てた。今度は耳が割れるくらいの轟音だ。数年前の大地震が脳裏に浮かんだ。しかし、今の彼にはそれが現実か幻覚かの判断さえも不可能だった。たとえ今ここで死んでしまっても、それが本望とさえ感じた。男は空っぽだった。壁や天井、窓の隙間から漏れ出た夜の闇が、磁石のN極とS極のように、ゆっくりと、互いに引き寄せ合う。男はその間で、剥製のように呆然と立ち尽くしていた。男は夜に飲まれ、数時間後、夜が明けた。

 町は市役所の改修工事の音で目を覚ます。大学近くのコーポの一階の部屋から一本の電話が入った。住民によると、ぶよぶよとして赤みがかった大きな塊が天井に鍾乳洞よろしく付着しているとのことである。

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