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蛇行しながら、「意味がなさそう」な物事に向きあい続ける(前編)

2022年9月から2023年2月の半年間に及ぶ、社会人向けゼミ「第1期 メッシュワークゼミナール人類学的な参与観察によって問いをアップデートするトレーニング」は、2023年2月24日から26日にかけて開催された、会場での展示とトークイベントから成る「フィールドから揺さぶられるとき」をもって締めくくられました。

今回は、本ゼミを修了した弓指利武さんへのインタビューを実施。ゼミの内容や、自身のソフトボールチームで行ったフィールドワークでの経験を振り返っていただきながら、今あらためて考えること、感じることなどを、インターンの井潟が聞いていきます。

弓指さんご自身による振り返りはこちらから。

ゼミ生プロフィール

弓指利武さん:京都府出身。2000年に学習塾に就職、その後教育向けコンサル事業を経て、国際貿易、食品メーカーのHRに従事し現在に至る。ゼミの題材になったソフトボール球団「京都上鳥羽ユーマーズ」は2005年に創設(選手兼監督)。

研究テーマ:ベンチの中でつくられる、選手たちの物語
概要:組織やチームの状態を表す「風土」「雰囲気」とは一体何なのか。まるで具体的に手に取れない厄介な霞のようである。数多ある組織論を眺めたとて、今ここにある「風土」「雰囲気」は捉えきれない。もしや、そこで奏でられる言葉や仕草の一つ一つにヒントがあるのではないか。このテーマが生まれた事の発端である。例えば創設20年を目前にする草ソフトボールチーム。選手達の言葉や仕草の数々が「風土」「雰囲気」を創出しているのではと仮説を立てる。試合中のベンチでの選手間の関係性や会話等を観察し、集う選手達はどんな場面で、どんな言動を起こしているのか。それは誰に向けられ、何を意味するのか。ベンチの様子を中心に、オフ会からもヒントを得つつ、交わされる言葉や仕草、秘められた意図の展開具合を、選手一人一人が内包する個々の背景と共に見つめたい。ベンチに座する選手間から聞こえる音、その動きの一つひとつに、物語があった。

フィールドとしての草ソフトボールチーム

井潟:私のイメージとしてはメッシュワークゼミに入られた時点で、弓指さんはご自身のソフトボールチームをフィールドとして念頭に置かれていたのかな、と思っていたんですけど、そうではなかった、と伺いました。

弓指さん(以下、敬称略):最初は職場もフィールドの候補に上がっていました。職場のメンバーの会話を文字に残したり、打ち合わせの会議の場面を取ったりして、噂話を抽出してみたら面白そう、と思っていました。Aさんは実はこうだと言っているが、こっちでのAさんはまた違うことを言って、それが他の人の間で展開されていって、みたいな。組織での噂話の広がり方や、噂話の多い組織のあり方に何か共通項はあるだろうか、というところに当初の興味の比重がありました。

井潟:そういう興味関心は、職業とも関係しているのでしょうか。

弓指:人事の仕事をしているので、組織や人間関係に、どうしても注意が向きますね。組織の良い雰囲気と悪い雰囲気、この人がいるとなぜかうまくいく、うまくいかないの違い。あるいは組織の中で何を言ったかより誰が言ったかが大事になる場面を見て、なんで人間はこういうことするんだろうな、とか。最近で言えば、完全に義務ではなくなってもマスクをみんな着け続けたりとか。そういうことにずっと興味があったんだと思います。いずれにせよ1on1の面談のなかで僕が何に興味があるか、比嘉さんから聴かれ続け、引き出してくれたことが大きかったです。

じゃあ、組織の雰囲気、風土のようなものって、どうやってできてるんだろうと思ったんですよね。そして、その過程を探るために何を切り取り、何を見れば良いか、という問いが生まれました。その切り取り方として「噂話」に焦点を当ててみようと思ったんです。そういう噂話、ゴシップがどこで形成されるかというと会話の中にあるのではないかと。じゃあそれが分かりそうなフィールドはどこかと考えたときに「このグループ、このチームなんなん?めっちゃ見たいわ」っていうところの方がいいじゃないですか、興味がないところよりも。しかも、素の表情とか会話が出るところ。それを考えると職場の場合、お金が発生しているし、上下関係があるじゃないですか。一方でソフトボールは趣味だから、みんな好き放題するんですよ、「言いたくないことは言わんでもええし、言いたいことはどんどん言うたらええし」みたいな。こういう経緯で、ソフトボールチームにしてみようと思いました。

井潟:ゼミ生の皆さんは社会人なので、フィールドワークの時間をどう捻出しているか、気になっていました。その点、弓指さんは普段から活動されているソフトボールチームでリサーチをされていたので、週末のその時間にがっつり、という感じでしたか。

弓指:試合のある日曜日にメインでフィールドワークをしました。僕の場合ラッキーだったのは、フィールドワークのためにどこかに出向くんじゃなくて、試合は元からあって、そこに僕が参加することも元から決まっていたので。プレイヤーでもあり、監督でもあり、フィールドワークもしているから、精神的負荷は掛かるんですけど(笑)。

思考の忙しさはありつつ、行く場所が増えたわけではないので、体は持っていかれないですよね。やることが多くなっても、時間は確保されていた。その分、他の時間でぐるぐる考える時間は持てたと思います。例えば近所のおばちゃん10人と会いに行こうと言ってアポを取るということをしていたら、それだけで結構な労力が必要で、タスクになってしまう。

フィールドワーク以外のことについては、平日の夜も使いました。それ以外に電車の通勤時間とか、ちょっと会議が長いなという時、あれを聞こうか、これを聞こうか、と連想ゲームのような感じで、ぱっと思い浮かぶことがありました。

井潟:ずっと弓指さんの頭の片隅に、フィールドワークのことが置いてあるというような?

弓指:10月中旬の上平さんの回(デザイン研究者・専修大学教授の上平崇仁さんをゲスト講師としてお呼びしました)に最終的なアウトプットとして展示をするという話を聞かされたときの衝撃が忘れられなくて。何をさせるのだ俺らに、と思いました(笑)。それまではレポートを書くイメージだったので。展示のことは、ゼミの募集の時には書いてなかったと思います。だから、そのときからずっと頭のどこかにありましたね。文章だけじゃなくて、あんな手もこんな手もある、と。

井潟:単純にフィールドワークのことだけでなく、展示という最終的なかたちが見えたからこそ、ずっと頭にあったという感じなんですね。

弓指:そうです、展示でどうアウトプットするか頭を悩ますからこそ、何をすることにどんな意味があるんだろうと考え続けた。あれは大きかったですね。

「食材」を用意してから「料理」を決めた

井潟:もし、アウトプットの仕方が展示というかたちではなかったら、フィールドワークも違っていたと思われますか?

弓指:思います、思います。

井潟:例えば、映像を撮ろうと思わなかった(弓指さんは所属するソフトボールチームのベンチの映像をデータとして撮り続けていた)などでしょうか。

ベンチでの一コマ。撮影してみると「想像以上に長い沈黙があった」が、「テンションは決して下がることがない心地よい沈黙」で、むしろそれは「必要な沈黙」だったと弓指さん。

弓指:あ、でもいずれにせよデータとして映像は撮ったと思います。ただ、文章のみのアウトプットだったら、映像を言葉に書き起こすだけだったかもしれない。撮影した映像をどんな表現があるかと思いながら何度も観返すことはなかったと思います。

僕は使うかわからないデータも含めて欲しいと思ったんですよ。食材いっぱい用意して、カボチャやらピーマンやら牛肉やらめちゃめちゃ買って、さあ、俺はこっから何の料理すんやろ、みたいな。

井潟:今日の料理を決めてからスーパーに行くのではなく、とりあえず材料を集めてきたけどどうしようってことでしょうか。

弓指:そうそう。 なんかあるんじゃないかって買ってくるわけですよね。すごいお金もったいないけど、例えばだから(笑)。それは僕にとって幅広さを生んだし、 面白かったですね。

井潟:方向性が決まらない、みたいな苦しい時期もありましたか。

弓指:えーっとね、年末年始です。比嘉さんとの1on1も終わって、そこからしばらくは基本的には一人で準備に取り組まなければいけない時期で、しかも日が余りないと気づいてどうしようって言ってる状況への絶望感ですね。年末までは、取ったデータの使い方や焦点を当てることを変えるかも、という可能性はあったんですが、そこからは腹を括ってやるしかなかったですね。展示に使うかは分からないにせよ、まず文章で整理しようとしたんですけど、最初の一文を書くときが、一番パワー要りましたね。結果的にその過程が大事だったなと思いますけどね。 

井潟:ちなみに、11月下旬の座談会(ゼミが中盤に差し掛かった時期に、メッシュワークのスタッフとゼミ生を交えて座談会を開催した)の書き起こしが残ってるんですけど、弓指さんがこんなことをおっしゃっていました。

ゼミではやればやるほど狭くなっていくと思っていたが、逆に進めるにつれ『知らない』ことが分かってくる。情報量の多さに気づいたし、ゼミのことを毎日考えざるを得なくなったが、それが絶望に変わるかというと、そうではない。

それを覚えていて、分からないことが増えるけど「絶望じゃない」という言葉が出てきたのはなぜか、最後の展示で「完全ではないけど完成させる」ところまでやり切った今はどう思うか、改めて伺いたいです。

弓指:大袈裟に言えば、一つの絶望を見たけど、その絶望は希望だったんです。「もう答えが明確でこのロジックで組んだらこうなりました」ということではないものをゼミ生は探してきたからこそ。このメッシュワークのメッシュって「蛇行する」とかそういう意味じゃないですか。蛇行したことの価値、現時点で答えがなくて、この行為に何の意味があんの、ということも させてくれるっていう空間はそうない。

意味ないかもしれんけど、頑張ってみたら、なんか見えてくるかもという立ち現れてきそうな予感も同時にするわけですね。結論だけがゴールじゃない、過程にこそ光が当たるといった話も比嘉さんとの関わりやゼミで聞いてるわけで。フィールドワークの中で意味がないように見えることもするけども、何かあるだろうって思い続けること、だからこそ見えるものもある。このあたりの表現は難しいんですけど。

井潟:必要になるか分からない材料も含めて用意しておかないと、と分かっていると同時に、それが不安を生むということで、それが「絶望」とおっしゃっていたことなのでしょうか。

弓指:そう、それです。仕事をしている人は、いかに最短で最善を尽くすかという「タイムマネジメント」という言葉で表される価値観の内側にいるうえ、その内側で、それに対する疑問符をみんな少なからず、持っているんですよね。他の人にはある種の「無駄」に見えるけども、無駄を体感した人でしか見えない景色があるっていうのは、本当に自分としては希望だったんだろうと。だから、実生活でも「答えわかってるやん」ということさえも「もしかしたらそうじゃないかもよ」という問いが立つようになるんですね

インタビュー記事の後編はこちら


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