第一回 僕の短歌/俳句抜粋

どうもこんにちは。街川風火です。主に飯落と名乗っている人間が一次創作をする時に使っている名義ですね。

元々短歌とか好きだったので、ここ一年くらい短歌とかを詠み始めてたんですが、そろそろかなり溜まってきたので、整頓のために特に気に入っている奴をまとめて、解説とかも雑にしておこうと思います。よろしくお願いします。

師走から日常ばっか溶けていく ぼうぎょがぐーんと上がればいいのに

12月の休暇を無為に過ごしていた時の句です。「とける」というポケモンの技は防御を二段階上げます。この無為に過ごして溶かした日常が何かの役に立てばいいな、という、実際にはあり得ない逃避の歌。

自販機の小銭に灼かれ手を焦す 冷たくなったつもりはないのに

冬、自販機で飲み物を買ってお釣りを取り出す時に、お釣りがやけに熱く感じました。なんとなく、自販機に「お前はこの無機質な機械であるおれより冷たい人間だ」と言われた気がして、悲しくなった時の歌です。

春風は「置いてかないで」を置いていく

捨てられた煙草のように萎れてる桜の花びらざまあみやがれ

春というのは出会いと別れの季節で、だからあまり活動的ではなく怠惰な僕は色々な人に置いて行かれて、悲観的な僕はその別れをずっと引き摺って。春というものが嫌いな僕の、悲しさと八つ当たりの二句。春を描いた歌です。

#いいねした人にしてあげられること特にないけど星でも見よう

「いいねした人に〜」系のタグが流行っていたのだけれど、僕はそういうものができるほど見知らぬ誰かに好感を持てず、また、嘘をつくのも苦手で。だけど、一緒に何かを見るくらいは誰にだって、僕にだってできます。そんな、自分と誰かへの励ましの歌です。

振り下ろす機会を失いとりあえず審判台に立て掛けた青春

僕はコロナ禍でテニス部の引退試合を失ったんですが、そのせいで未だ「やり切った」という実感がないままです。結局あの時ペアだった後輩に別れを言う機会も失われていて、思い出されるのは休憩時間に審判台に立てかけていたテニスラケット。試合が再開しない限りそこに立てかけたままなのですが、休憩時間に全ては終わってしまったので、多分俺とラケットはそこに置き去りのままです。

カラオケで歌えない曲ばかり好きです 僕と付き合ってください

カラオケで歌えないようなマイナーなインディーズバンドが好きなんですが、そういう人間は僕含め面倒くさい性格をしていて、だから結局それを隠して生きていくんですが。僕のカラオケで歌えない曲が好きなところも含めて好きと言ってくれたらいいな、とか、そんなことを思っていた気がします。

離婚観尋ねられるたび思い出すチリコンカーンは異国の食べ物

実体験です。大学で離婚観の話になった時、そういえばチリコンカーンってあったな、と思いました。言葉遊びですね。

被虐願望拗れた朝にパンを焼く バターナイフは鈍く優しい

カッターナイフがそうであるように、基本的にナイフというのは攻撃性や自傷行為のメタファーであるのですが、バターナイフだけはそうではないな、と、カッターナイフでバターを切っている時にふと思いました。あのバターしか切れない鈍らな刃物の鈍さに救われる朝もあったという歌です。

七月の異常気象を愛したい 爪弾きなのは僕も一緒だ

今年の7月は異様な暑さだったわけで、僕たちはその暑さが嫌いだったわけですが、よく考えればそれはこちらの都合で、僕の方がそういうものでしかない七月より自分都合な生き方をしているんじゃないかと思いました。だったらせめて僕くらいは七月を愛してあげたいな、でも暑いものは暑いな、という歌です。

細波とちいさな蟹を奪い合う

実体験です。海に行ってきたんですが、小さい沢蟹を取るためにぱちゃぱちゃと浅瀬で遊んでいる時、波のせいですぐ蟹を見失うんですよね。

向日葵よ今が昔に陽は西に 思い出来たとて返り見ぬ波

「菜の花や月は東に日は西に」から着想を得た歌です。ひまわりが沈む日を見ていて、1日が終わる時に、何を振り返るのかという歌です。他にも「思い出来た」と「北」、「返り見ぬ波」と「南」などをかけています。

あと何年椅子は軋んでくれるだろう 夜の地上波は鳴かなくなった

ちっちゃいころの夜の地上波はノイズしか流さなかったんですが、今は深夜にもようわからん番組が流れ続けていて、そうやって時代の流れで便利になっていくことは良いことなのかもしれないけれど、失われた不便に対して僕は目を向けて悲しんでしまうんですよね。体重を乗せた椅子が軋むことにも慣れと愛しさがあるけれど、質の良い椅子をいつ買って、いつこれが無くなるのかなと思うと寂しいものがあります。

読んでいただきありがとうございました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?