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自己紹介に代えて

九州の西側に、盆踊りでよく聞こえた「炭坑節」がある。
その歌詞の一節に「香春岳(かわらだけ)」という山が出てくる。
石灰岩の山で、セメントの原料がそこから採掘されるが、
長年の採掘でその姿は消え、いまでは、低く平たいだけの姿に。

幼少の頃は、その町で、のんびり育った。
おもしろいことに、職人さんの働く場が、私はスキだった。
下校の途中、たとえば鍛冶屋さんを見ると立ち止まり、じっと見入って飽きずに時をすごす。働く大人は、カッコよかった。
「ぼんぼん、はよう帰らんと、母ちゃんが心配するぞ」
いつも、そう声をかけられたものである。

親に負担をかけまいと、早く働く人間になりたくて、当時、
高い競争率の工業高校を選択。片道2時間の汽車通学で頑張った。
卒業後は、大手総合化学メーカー(富士山の見える富士支社)に入社。

米国に次ぐ世界第二位のGDP(国内総生産)を誇る経済大国を
仕事の忙しさで体感しながら、増設工事を覚えていった。
毎日、大きな富士山を仰ぎながらの往復でよく働いた。

しかしながら、であった。
大企業ゆえの、職場の先輩も上司も一流ブランドの大卒ばかり。
そんな環境では、もって生まれた自分の資性が育たない。

なんと、5年目、自身の希望で転勤を願い出、それが叶う(宮崎県へ)。
そこは生産性向上の研究室。資性活性化で成果を出す最高の職場。
石の上にも3年と言おうか、4年目には大きなテーマをクリア。
「もっとおもしろい知恵を出してやろう」の野心を燃やす。

だが直後、あいにく部署がリストラで消滅。ガーン!
意気消沈も、幸運にも社内で活動中であったのが、急成長の最中にあった生産性向上を指導するコンサルファーム。高い評価でよかった。

これぞ渡りに船。そのファームに挑め! と一念発起。 
企業のスペシャリストと連携できる生き方も開花した。
いよいよ天職と決め込み、私は転身を決意(東京都へ)。
以降35年間。

その間、上述コンサルファーム(当時コンサル120名)に在籍し、
10年間。独自のテクニックを開発・普及して実績を重ねる。年一回の技術発表大会にて、最優秀2回、優秀5回などで賞金稼ぎともよばれた。

私のばあい、プロは発想で乗り切る使命をもてといった信念をもつ。

その後独立し、いくつかのプラットホームとして某能率大学委嘱講師15年間。大手電機メーカー技術職の教育研修15年間。以降、それらを礎に、多くの場でコンサル活動を展開(活動拠点を神奈川県に)。東奔西走。

しかし、それら活動の末葉時点にて、私の活動は低迷する。それは、提携する某ファームからの受嘱案件(戦略思考の研修)を辞退して以降である。

その辞退の一件は、私の中で動物的直感/直観が反応した事件。
なぜなら、競争戦略のかなめの部分で業界の勝ち負けをつくり出す。負け組をつくれば、実体経済/業界全体が成長しない。それが好循環を阻害する。さらに、企業たちが流行りに乗ることは「競合/負け組を増やす」のである。これも全体の成長の足を引っ張る。そんな危機意識が私自身を困らせた。

「失われた30年」は、私の考え中の問いと一致している気がする。

直近の10余年はその課題にこだわり、解決の糸口を思索してきた。
それは私にとっての天命、と勝手に思い過ごしている毎日。
その草稿のスケッチは生まれるも、普及への障壁は強大なり。

蛇足ですが、私の趣味はというと
ウクレレのインストルメンタルで楽しむことです。
ポロン ポロン♪~

それでは、このあともよろしくお願いします。



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