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早朝

久しぶりにnoteを書きます。
何度も投稿しようとしたのだけれど、内容を淘汰できない私は結局なにが言いたいのか分からなくなってやめていました。

これは誰にも宛てない"ような"近況報告です。

しばらく自殺未遂という行為はしていませんでした。
その期間、半年くらい。
精神的にもかなり安定し始め、たまに乱れるものの復学する意欲も湧いてきて、もう私は過去の自分には戻らないだろうという自信もついてきた頃でした。

復学して2週間。
意欲的に設計課題に取り組んでいました。
何度も敷地調査に向かい、落ち着いた態度と開けたようなアイデアで、先生からも休学中に他の勉強をしていたのかと尋ねられ大人な考えだと周囲にも褒められるくらいには、とても上手に、かつ楽しく設計をしていました。
私は初めて設計課題を楽しいと思えたことがかなり嬉しく、それ故に1番畏れていた、自分のキャパシティを超えるようなきつきつのスケジュールに追い込んでいました。
それもそういう自覚は全くなく、むしろうまくスケジュールをこなしていることに自信をつけている始末。

ポツポツと不調が見え始め、それに気付いた頃には私の築いた建物は、功績は、時間は、気持ちは、一瞬にして跡形もなく崩れていきました。
面倒臭いので直接的な原因は省きます。
ただ久しぶりに、猛烈に死にたいと思いました。

さらにそれまでと違ったのは、その死にたさが鬱による死にたさではないと感じたこと。
今までは、何にもできない自分を憎んで嫌ってただ現状が溢れるほど苦しくて、自殺未遂を図っていました。
けれど今回は、苦しくなかった。
周囲の人は愛しているし、設計は楽しいダンスも頑張っているバイトも行っている、むしろ幸せの絶頂にいる感覚でした。

ただ、今回の死にたさを今まで一度も抱えなかった訳ではありませんでした。
というより、それは慢性的な死にたさ。
躁でも鬱でも寛解期でも授業を受けてもダンスに行ってもバイトに行ってもどんな時でも、なかなか顔を出さないながらに常に私の根底にあるような死にたさでした。
これは間違っているのだろうけど、私の中にある自死に対する美化した考えや、自分の人生・命に対する無責任さ、生きることへの疲労、困難ばかりの将来を想像して生きていたくないという絶望、等が所以です。

それはそれはおそろしく、苦しくないからこそストッパーが効かない状態にありました。
苦しい時は、幸せを想像して比較しているから真っ黒な希望を心に抱いている感覚、それは決して白くないけれど希望に変わりはなく、それが片足の錘になっていたのだと思います。

今回は両足とも驚くほど軽かった。
というと少し嘘になるけれど、でも初めて、両足で塀の上に立ちました。
一歩、二歩、踏み出して土踏まずまで足が出るギリギリで、塀から降りました。
いつもとは違うから怖くないとあんなに思っていたのに、結局何度挑戦してみても、震えと涙が止まらず、自分が死んだ後の世界の準備も完璧だったことすら覚悟の浅さと思えるくらいに、私は死ぬことが恐ろしいようでした。

それから、しばらくは私の時間は再び止まりました。
今振り返ってみれば、あれは躁期で、鬱転し始めていたのだと思います。

学校には行かなくなりました。
ダンスやバイトには、行く回数は減らしながら、それでも行かないと悪化することは分かりきっていたのでなんとか体を奮起させ行きました。
マイナスな発言ばかりしていたけれど、ちゃんと私は螺旋階段を登っているのだと自覚できて、嬉しくもありました。

考えました。
どう生きていくか、幸せでも苦しくても死にたくなる私と、一生を遂げるために。

専攻を変えて、大学に編入することにしました。
試験に備えて、勉強を始めることにしました。
その他自分の精神的なヘルスケア環境を整えました。
お金とか、時間とか、結果とか、もちろん現実的なことも。
周囲の理解をいただいて、それから。

私は私に負けたくない。

そうして私は、過去の自分には決して戻っていないことも自覚できました。
一山二山いくつの山や谷を越えても、私はまだまだ未熟でだめだめだけれど、人生は割とめちゃくちゃで、人に迷惑と心配ばかりかけているけど、弱くて最低だけれど、かっこ悪いけれど、もう死なないから。

どんな人生になるか、楽しみにしていてください。

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