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え!?ツイートしたら…?

・左側通行
親が運転する車に助手席で座る。
あれ?と思ったことがある。世の中って右側通行じゃなかったっけ?
私は大阪に住んでいるので、無論エスカレーターも右側に立っている。しかし、それ以外も進行方向向かって右側だった気がしてままならない。
この話を誰にしても、いまいちさっぱりした反応は返ってこない。皆、一様に「うーん」と首を傾げる。
私が幼い頃は車も徒歩も階段も全部右側通行だったきがするんだけどなあ。

・ボーッとする
小さい頃に度々あった感覚。頭に一枚の膜を張ったような感覚。私はそれを「ボーッとする」と表現していた。

玄関から出て、エレベーターで降り、駐輪所に向かう。エレベーターまでははっきりとしていた意識が、駐輪所に来た途端に夢の中を歩いている様な感覚に陥る。驚いた私は母親に「夢みたい」と告げる。母親がなんと返答したかは覚えていない。

小さい頃はこれが何回もあった。時や場所、タイミングに共通性は無く、いきなり意識に膜ができ、いきなり覚醒する。
これをあるいは、夢見心地と呼ぶのかもしれない。

この、意識に膜を張った状態の時、私はここに存在していたのだろうか?実は他の世界線の私が存在しており、そちらに意識を傾倒してしまったが為に、こちらの私は意識がボーッとしていたのでは無いだろうか。

大人になってからこの感覚は随分と減ってしまった。時たまあっても、幼少期のあの頃とは少し違うような気がするのだ。

・「わかる」
「こう考えてるんだよね」「これはこうだと思う」
この様な会話がなされたとき、皆さんはどう返事をしていますか?
私はついつい、「わかる」と言ってしまう。
言ったあとで、しくったな、と思う。
他人の考えが本質的に分かることなどないのだ。しかし、私は不用意にも同意をしてしまう。

これを辞めたい。だが、「わかる」という言葉以外でこの感情を表すことができない。
例えば、「理解できる」。これは「わかる」よりも上位な存在だという肌感覚がある。つまり、わかるとは発言された言葉の上澄みだけを掴んでいる状態、理解はさらにその奥の本質まで読み取っている様に感じられる。
前述した通り、他人の考えが本質的に分かることはない。すなわち軽い会話のキャッチボールにはあまり相応しくないように感じる。
かといって、言っていることが納得できないわけでも分からないわけでもない。分かる、のだ。
ましてや、わかる、と言った後にわざわざ「本質まで理解してるわけじゃないけど」といちいち付け足すのはあまりにも情趣がない。
したがって、「わかる」と表現するより他無くなってしまう。ー私に語彙力と心情を適切に表現できる技量があれば解決する問題ではあるがー

皆さんはこれを分かってくれますか?

・思想
「女性らしい女性ばかりが出てきてあんまりだった。これが作者の良い女性像なのだとしたらがっかりだ」
最近読んだ本の感想を調べていると、こういう様なことが書かれていた。
果たしてそれは本当に、作者が理想としている女性像なのだろうか。
ある意味では理想には違いない。そういうことではなく、作者が「いい女性は全員こうあるべきだ」と思っているかどうか、ということである。
作中に出てくる以上、作者の思う良い女性像の一種であるには違いない。だからといって、作者が「良い女性はこれしか有り得ない」と名言していない限りは、それが全てとは言いきれない。
勿論、「これ以外にも良い女性はいます」とも名言していなければ、ひとつの良い女性像のみを見ている可能性もある。

創作された作品において、目に見えるものだけが作者の思想とは限らない。
例えば私が、創作の小説を書いたとして、その中で「目玉焼きにはソース一択」という文章があったからといって、現実の私自身が食卓に並んだ目玉焼きにソースしかかけないわけではない。
それと同じで、作品に出てくるあらゆる思想が全て作者の思想や信念とは限らない。
そう、この文章全てが、私の思想や信念とは限らないということでもある。

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