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優劣の視座:やまゆり園事件から7年と、「過眠症かなんか」の人の出世

ひとりの人が「意思疎通のできない重度の障がい者は不幸で社会に不要な存在だ」「障がい者を安楽死させることで世の中は良くなる」という動機で、大量殺人を犯してから7年が経った。

その日に、あるツイートが美談として出回っていた。

「過眠症かなんか」の人が、「非常に仕事の評価が高く」、それゆえに一目置かれているという状況。

じゃあ、仕事の評価が普通だったら、一目置かれないというのか?

「過眠症かなんか」の人が「会議中に寝て」しまい、それが「会議がつまらない」からだと周囲に思われる。

つまり、「過眠症だから眠ってしまう」ということは周囲の人は一ミリも理解できていないってことじゃない?


これは、ほめたたえられるべき美談として私の目の前に回ってきた。だからこそ、世の中の能力差やハンディキャップのとらえられ方をグロテスクなまでにあらわにしている気がして、正直、むなやけがした。

違うでしょう、周囲の人がとるべき態度なのは「過眠症かなんか」の人が「寝てるからつまらなないんだな」と勝手に決めつけるのではなく、「どうして寝てしまうのか、それを改善したり、組織で受容するために何ができるのか」検討すること。

そして、ハンディキャップの当事者やその身近な人間として取るべきなのは「○○はハンディがあるけど、別の能力が高くで評価されている」と鼻高々に誇ることではない。「別の能力が高いから社会でやっていけているが、実は○○というハンディがあって、こういうふうに世の中が変わってくれればもっとやりやすくなる」と自分の身近なところから発信していくことじゃないか。



私がこの件に関して「潔癖」っぽくなってしまうのが、私が「過眠症かなんか」の人だからだ、まさしく。当事者なのだ。
ちなみに、「過眠症」ではない。「睡眠障害の傾向がありますね」と言われるだけで、明確な診断を得るには健常者に近い、グレーゾーンだ。

それにもう一つ、「中程度難聴」という、こっちは明確な診断を受けたハンディを持っている。

でも難聴も、障碍者手当がもらえたりするわけではない。健康診断で引っかかって、検査して「あなたは難聴ですね。先天性で悪くなる傾向もないから検査して終わりです」ってほいっと投げ捨てられる。治療できるわけでもないし、福祉のケアが得られるわけでもなく、正直、当事者任せだ。

そんなハンディを持っている人なんて、あふれるほどいるだろう。

そんなあふれるほどいるだろうハンディを持つ人の一人である私は、やはり一見まったく普通に日常生活を送れているのだと思う。

ぼーっとしてよく居眠りをしるから、学校や職場で「やる気がない」と言われてきた。身勝手なアドバイスで、「立ちながら仕事をしたらどうか」と言われた。立ったままでも眠れますが。
クラスメイト同士で交わされるひそひそ話がわからなくて、仲間外れの気持ちを味わったし、実際仲間外れになった。もう少し大人になってからは、本当は聞こえないのに聞こえているふりをして愛想笑いもした。コロナが流行り誰も彼もマスクをし始めると、口元が見えなくなって本当に人の話が聞こえなくなった。何度も何度も、二回三回四回、最終的には筆談のような形で同僚とコミュニケーションをとったときは、相手の面倒くさそうな反応や突然言葉が消えてしまったような感覚にとてもショックを受けて、目の前が真っ暗になるような気分だった。私はこれからコロナが収まるまで、ずっと孤独なのか、と。

(正面同士で話すと相手の話の理解度がいっきに高くなることや、聴力自体は健常者と同等のスピードで落ちているのに体感は年々聴力が上がった気がしていたので、自分が無意識に読唇をしていて、読唇のスキルがだんだん高くなっていることはうっすら気づいていた。)

そんな私は一見、普通の人だろう。少しぼーっとして、居眠りが多くて、人の話を聞いていないことが多いだけの、普通の人。

「完璧ではないですがこれが普通の人の聴力です」と言われて初めて補聴器をつけた時の、世界の音、エアコンや冷蔵庫の機械音、風の音や鳥の声の鮮やかに聞こえてきたことの日は忘れられない。

睡眠導入剤を恐る恐る飲んで眠った翌朝、人生で初めてじゃないかと思うほどの夢を見ない深い眠りと、スッキリとした目覚めが、どれだけ嬉しかったことか。

それでも私は障がいを持たない、健常者なのだ。



結局、冒頭の「妹さん」に、私は嫉妬しているのかもしれない。私の経験が、「よく居眠りする人」に対して世間はそんなに優しくない、と言う。でも彼女は幸運にもそんな自分を受け入れてくれる組織に所属できたのかもしれないし、もしくは、140字では語られないところで、彼女自身が自分を受け入れてもらえるよう周囲に働きかけているのかもしれない。

でも、本人の周りにいる「姉」や「姉のツイートを美談として受け止める人」の態度にショックを受けたのは本当だ。

やまゆり園の事件から7年、Pray for Sagamihara のタグがツイッターに躍る。けれども一方で、ささいなことかもしれないけど、能力主義と障がい(ハンディ)への不理解の具現のようなツイートがもてはやされる。

誰もが生きやすい社会にはまだほど遠い。祈るだけでは、絶対に足りない、と切に思った日だった。

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