ちゃんと痛いと言いなさい

母が送ってくれたスルメと本日の気分で購入したアーモンドをつまみに、自作のカシスソーダを飲みながらキーボードを鳴らしている。隣では夫が友人とオンラインで格闘ゲームをしている。今やっと一息つくことができた私たちは最高に気分が良い。


というのも、今日は双子の4ヶ月健診と予防接種の日だったのだ。自宅の近くの初めて受診する小児科に車で双子を連れて行く。順番を待つ間は3回目となってもドキドキする。知らない場所にお出掛けで不安だろうな、知らない人に触られて怖いだろうな、注射痛くて泣くんだろうな。自分のことではないのに、まるで自分のことのように、いやそれ以上に心配になってしまう。頑張れの気持ちと頑張らなくていいよの気持ちが入り混じり、私は不安を誤魔化しながら子どもたちをあやす。それでも心の真ん中にある肝のようなものは座っていて、いざとなったらどうにか対応しよう、とも考えていたりするので不思議だ。これでも一応母親なのだなあと感心する。


予想通り、というか当たり前に、注射のとき双子は大きな声で泣いた。先生が「頑張ったね」と頭を撫でててくれたのが嬉しかった。そして私も嬉しかった。頑張ったのが嬉しかったのではなくて、ちゃんと泣いてくれたのが嬉しかった。


その昔、私は先天性の心臓疾患を患っていて手術をしたのだった。当時の私は小学1年生。手術の前の検査というものがあり、その時何度も点滴の針を刺されたのだが、私は泣かなかった。どうにも我慢が得意で、これは必要な検査だから仕方ないんだという諦めもあったように覚えている。そしたら母が怒った。「痛いんだったら痛いって言いなさい!」。それは勿論、検査の先生にも聞こえるような大声で怒鳴った。医療従事者の立場になった今だから分かるが、そんなことを言われたら相当なプレッシャーになる。そして「痛くしてごめんね、我慢させてごめんね、もう失敗しないからね」となる。緊張が半端なくなる。その後その先生がちゃんと針を入れることが出来たのか、他の人に代わってもらったのかは記憶に無いが、どうにかこうにか検査は行われた。



双子の予防接種を見る度に、母の怒った顔が浮かぶのだ。今なら母の言葉が理解出来る。痛いくせに、子どものくせに、我慢なんかしなくていいのだ。子どもらしく、痛いなら痛いと泣けばいいし、嫌がればいいし、それでいいのだと思う。我慢なんてされた方がよっぽど心が痛くなるのだ。どうせ歳を取れば取るほど何事も我慢せざるを得なくなっていく。子どもは子どもらしくしていてくれた方が、親としては安心する。だからこれからも、親の為に沢山泣いて欲しいと願うばかりだ。



それにしても、子どもは泣くのが仕事、というのは本当なのだなあ。泣かない子は親を困らせないから偉い、という風にどうも褒められがちだが、私はちゃんと泣く子の方が偉いと思う。泣くことだって意思表示だしねえ。そりゃあその子その子に性格や特徴があるから何とも言えないのだけど、長く寝ていてくれて手が掛からないから偉い子、とか、人見知りしないから偉い子、とかは完全に大人にとって都合の良い子であって、その褒め方はどうなのかなあとモヤモヤしたりもするのだ。私がただモヤモヤしているだけなので別にどうってことはないのだけど。ちなみに私のところは泣いても笑っても「お利口さ~ん!」って言ってたりする。いやあ本当に可愛い。



本日も子どもの話で終わってしまった。若かりし頃に「子どもは別にいてもいなくてもいい」と、かっこつけていた自分を張り倒しに行きたい。我が子は泣いても笑っても何しても可愛いぞ。

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