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屋久島を学ぶ③歴史の日:里めぐり

こんにちは!デザイナーの meron です!
屋久島滞在中に屋久島で学んだことをまとめたかったのですが、ババババーっと素敵な日々が過ぎてしまいました。年末もちょこちょこと更新していきたいので、ご興味ある方は是非のぞいていってください!

歴史の日。わたしは特に歴史が弱い…。
そんなわたしが日本の歴史を一気に学ぼうとすると頭がパンクしてしまうのですが、屋久島に関連すること!と限定すると、スッと入りやすい。
例えば屋久島にきた人たち…

■屋久島にきた人たち

・吉備真備
・鑑真
・日増上人
・宣教師シドッティ
・伊能忠敬
・西郷隆盛
・アーネスト・ヘンリー・ウィルソン
などなど

え!鑑真も!?
伊能忠敬は屋久島も!?(測量最南端は屋久島)
ウィルソンって、縄文杉にいく途中にあるウィルソン株?

観光名所としては、縄文杉や白谷雲水峡につい関心がいきがちですが、歴史が苦手なわたしでもわかるような人物、名前が聞いたことがある人物が来てるんだなぁと、ふむふむ。
教えてもらったことと、調べたことを少々。

●吉備真備(きびのまきび)

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吉備真備は正直知らなかった…。
奈良時代のめちゃめちゃ優秀な人。学者でありながらも政治の中枢までのしあがった人物は日本で2人いて、それが吉備真備と菅原道真らしい…!
717年に第8次遣唐使で唐へ留学して、唐の文化をたんまりもって734年に帰国。敵政の藤原仲麻呂に左遷されながらも、753年の第10次遣唐使に選ばれて再び唐へ。帰国の際に屋久島のトローキの滝に流れ着いて12月7日寄港したらしい。トローキの滝って港として使われてたのか!!と話を聞いたときは驚きでした。
航海は、黒潮の影響で流されすぎたり座礁したりとかなり過酷で、屋久島に様々な船が流れ着くということも多かったみたいです。
ちなみにアメリカのボストン美術館が所蔵する『吉備大臣入唐絵巻』という絵巻は、吉備真備が唐で現地の人たちに無理難題を押し付けられた際、阿倍仲麻呂の霊に何度も助けてもらったり、座りながら空飛んだり、内容がぶっ飛んでておもしろいらしい!みてみたいなぁ。

●鑑真

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永田の町から見える奥岳

鑑真も第10次遣唐使で、過酷な航海により屋久島に流れ着きます。吉備真備は第3船で12月7日にトローキの滝、鑑真は第2船で12月12日に尾之間のミヤカタの浜に寄港したという伝承があります。
屋久島に滞在時のお話で『新・屋久島の不思議な物語』に、普照と鑑真の以下のようなやりとりがあります。

「和尚、長田村へ行って雪を見て参りました。奥岳は天を衝(つ)いて聳(そび)え、白銀が陽に眩ゆく輝いておりました。まるで和尚の来日を喜んでいるかのように」
「それは良かった。普照が見た崇高な奥岳の姿がありありと念頭に浮かびます。今私はこの島に強い霊気を感じ、歓喜に震えていたところです」
鑑真が微笑んでいた。それを見た普照の目から一条の涙が頬を伝った。揚州の大明寺で鑑真にまみえて以来、十数年見たことのない微笑みだった。
引用:新・屋久島の不思議な物語ー松田高明

屋久島の奥岳は、町からは前岳がそびえていてほぼ見えないのですが、永田の町からは永田岳や障子岳などの奥岳が見えます。そして屋久島は南の島ですが、冬になると標高の高い奥岳には雪が積もります。その風景をみて感動した普照と、それを想像して微笑んだ鑑真がいたかもしれないと思いながら奥岳を眺めると、また違う素敵さを感じられますよね〜

全員説明しようとすると長編になってしまうので、この日の研修内容に戻ります!

■屋久島に熊野神社

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楠川の集落にあるこの熊野神社は、種子島の熊野神社を勧請したものです。種子島の熊野神社自体は、10代目当主の種子島幡時が和歌山の熊野権現からもらった小石を種子島で祀ったのが始まりだとか。
熊野神社がそもそも日本中でこんなに流行って広がりをみせたのは、山伏が大きく影響しているらしい。山伏は修験者で、山で厳しい修行をする人たち。山での修行を終えると里へ戻って、得た知識や悟り、役に立つ知識や技術などを伝えていく。山伏は山の人であり、産業を起こす役割でもあったようです。

なんで熊野神社がここにあるの?って考えたことなかったー。
そして熊野と種子島と屋久島の関係性が垣間見れておもしろい!

■法華宗

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久本寺の屋根中央にある家紋は北条家の家紋「三つ鱗」。

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1487年、法華宗は種子島氏と共に、種子島と屋久島と口永良部島に布教をしました。屋久島に関しては、山には神様がいる・屋久杉はご神木といって島民は杉を切るのを恐れていました。布教に訪れた日増上人(本能寺六老僧のひとり)が永田の山へ入り、山の神と法力バトルをして勝ち、樹を切る許しをもらえたぜ!というぶっ飛んだ話があります。これもおもしろいですよね。
屋久島布教に成功して、そこから種子島氏がスポンサーについて宮之浦に久本寺、安房に本仏寺など法華宗のお寺を立てたそうです。

ちょっと流れをつかむとだんだんおもしろくなってくるなぁ。

檀那墓(だんなばか)

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久本寺にある「檀那墓」。種子島氏から島津氏へ直轄領になってから、屋久島へ派遣され在任中に亡くなった方々のお墓です。

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天保や寛政など墓石に時代が刻まれているのを見ると、江戸時代に屋久島で任務を遂行していた人たちの貴重な史跡だなって思う。
そしてふと疑問。「なんで墓石に橙色が出るのですかー!」と質問したところスミレモと教えてもらいました。スミレモをここで覚えたら、山でもどこでもすごい目につくようになったー。スミレモといい地衣類といい、どこにでもいてすごいなぁ。

●栗生の墓地

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また、珍しいお墓としては栗生にある、黄色い山川石でできたお墓たち。
初めて連れてきてもらった時は景色に圧倒されて、「観光の屋久島」という目線では見れない場所だと感じました。奥に山が見えて、なんだか不思議な気持ち。マチュピチュみたい?こちらも貴重な史跡じゃないでしょうか。


■岳参りの見送る・出迎える場所

もう一つのリクエストは、岳参りのときに山へ行く人たちを見送る場所であり、出迎える場所でもある詣所をまわりたい!!

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屋久島の歴史を学んでいると、なかでも楠川は島で唯一古文書が残っていたり、屋久杉伐採をする上でルートとして利便性があったり、城があったりで何かと気になる場所なので、ノノヨケをリクエスト。気づかず通り過ぎてたなぁという場所にありました。


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近くの宮之浦で山口神社もお願いした。

こういう場に来ると岳参りのスタートを知れたようで、ルートもふつふつと気になってきます、笑。

岳参りについてはこちらも興味あれば!

■コンパクト、されど壮大

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歴史が苦手なわたしでも、ざっくりな今への移り変わりは理解しました!
ピンポイントじゃなく、すごくわかりやすく広がりをもって、たーーーーんまりお話してもらったのですが、わたしの中の歴史キャッチ力が鈍いため、個人的に調べたり学びなおしてまたお願いしようと思いました。

個人的宿題は以下かなぁ。

・屋久島大絵図と楠川
・樹を運ぶルート
・法華宗と種子島と屋久島
・幡時
・島津義久
・泊如竹
・藤堂家

学ぶ上でも、なぜ?なぜ?は、かなり重要だなと改めて感じました。なぜ入ってきたのか?なぜ発展したのか?なぜ衰退したのか?
歴史を読み解く際は支配主と支配下の関係、またその支配主は何に動かされているのか。屋久島だと要求は島津からくるから、なぜ島津が杉を必要とするのか?その動きの原因は京都や大阪から。種子島も大阪とつながりがある…などなど、全体感も認識していこうー。

また新たに屋久島の魅力を知れた1日でした!

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