火中の栗を拾うつもりもないくせに

 このタイミングで、開閉会式の音楽担当に関して、ミュージシャン本人が(冗談であれ、本気であれ)名乗りを上げる行為に対しては、「とはいえ、自分には絶対にお鉢が回ってこないだろう」という考えを持っているのではないか、とすこし醒めてしまう。邪推ではあるにせよ。

 彼らが、国際的な規模の式典に今から音楽をオファーされることの苦労を、理解していないはずがない。そう思ってしまうのだ。どんなにネタにされているところであっても、世界的な注目を浴びる場ではある以上、どうしても日本というものを背負わされること。そして、演出の現場とコミュニケーションを取らないといけない、ということ(まあ、今の運営がそこを大事にしているかどうかは、あやしいものだけれども)。それを引き受ける、という気持ちがあるのかどうか。「ネタにマジレスしてどうするのだ」と言われれば、「ああ、やはり、ネタで言っているのですね」と返すしかない。

 要するに、ミュージシャンとしては、得なのだろう。日程からしても、規模からしても、今からオファーが来るわけがない。実際に起用されるはずがないので、五輪反対派にバッシングされる不安もない。一方、ネットを中心に「おもしろいことを言ってるぞ、いいぞいいぞ」という扱いになれるし、このタイミングで「音楽をやらせてくれ」とボケるのは得することが多い。端的に言えば、ウケる振る舞いだ。

 しかし、火中の栗を拾う覚悟のない人が、「代わりに俺がやろうか(笑)」とボケるパターンは、鉄火場の人間にとっては「じゃあ、頼むから、すこしでもやってくれ」と嘆きたくなることが多い。もちろん、五輪と比べたら規模も責任も比べ物にならないほど小さいものの、自分も似たようなことを仕事で経験して、げんなりすることは何度もあった。

 よって、「式典の音楽をやらせろ」というツイートを見た現場の人の気持ちは、お察しします、という感じである。何から何まで悪い目が出ている中で、それでも火中の栗を拾おうとしている人が、(おそらく)今も手を動かしているだけに、「俺にやらせろ」とSNSでリツイートといいねをもらっている姿は、どうも無責任に見える。まあ、才能もない、影響力もない路傍の石である自分の考えなど、どうでもいいことなのだけれども。

(それにしても、「実は最初、〇〇に頼んでいた」「ギャラは△△ぐらいらしい」などと、今になってSNSでべらべらとしゃべる人が、信用できるのかどうかということは、五輪の問題とは別に、すこし考えたほうがよい気がする。何かを告発するならまだしも、騒ぎに乗じて事情通を気取る人間はすくなくないのだし)


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