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20/02/20 日記 傷ついた者へ祈れ

 カウンセリングで気づいたことだけれど、どうも自分の発言や行動を思い返して不安になるのは、小学校時代にいじめを受けていたことが一因であるのではないかと思い至った。

 周りのほとんどが幼なじみである田舎の子供たちにとって、東京から転向してきた自分はいちいち気に食わなかったところがあっただろうし、こちらも社交性がある子供ではなかった。

 何か調子にのったことや楽しそうなことを言うたびに、あとで殴られたり笑われたりするのだけれど、当時はその理由がよくわからなかった。ただ、間違ったことを言ってしまったのではないか、浮いた行動をしてしまったのではないかと、いつもびくびくするだけだった。

 だからといって当時のいじめっ子たちに対して、今さらどうこう言おうとも思わない。現在、自分が持っているくだらなさは、自分のせいなのだし。また会おうとは、けっして思わないけれども。

 今でもその癖は抜けていなくて、何かを言い終わったあとに相手に不機嫌になっていないかどうか聞いてしまうことがある。「大丈夫だった? 気を悪くしていなかった? そういうつもりではなかった」。こんなことをいちいち言われる方が面倒だろう。

 あるいは、誰かと会ったあとに、あの発言は言いすぎたかもしれないと頭の中で反省会をすることさえある。ところが、多くの人は、この行為の意味がわからないらしい。「どうしてそんなことをするのか? 自意識過剰なのではないか?」と聞かれたら、たしかに自意識は過剰なのです、と答える。

 傷つくことも怖いし、傷つけることも怖い。

 そうはいっても、自分が不義理をはたらいたり誤解を招いたりしたことがあるのは、そして人付き合いというものが、おそらくは人並み以上に苦手なことは確かで、何から何まで自分は誠実であるというようなことは言えない。今にして思えば、自分とぶつかった人が「こいつはメンタルが万全ではないわけだし」と思って苦い経験を飲み込んでくれたことも、多々あるだろう。若いから許していただいたことも、きっと一度や二度ではないに違いない。

 しかしながら、自分を省みれば、トラブルを抱えている人にも腹を立てたり、若い人の言動に我慢できなかったりと、何も許せていない。優しくしてもらったくせに、優しくなれていない。相対的に自分の器の小ささを知る。時々、他人に憎悪を向けそうになって、いかに己が矮小な存在であるかを自覚させられる。

 一方、悲しいことに、ネットには憎悪があふれてしまっているらしい。国内だけの話というわけでもないようで、たとえばBilly Eilishは、「キャンセルカルチャーばかり」と言っている。

 セレブの問題発言、過去の発言やツイートを掘り起こしてバッシングすることを、キャンセルカルチャー、というそうだ。その人の番組や仕事を辞めさせる(キャンセルさせる)事態にまで発展することから、そう呼ばれる。

 匿名で揚げ足を取り、おもしろがって何も責任を取るつもりがない(よもや自分が被害者になるとは思わない)人たちが、ネット上に増えてしまった。しかしながら、そう見えているだけで、もともと社会というものは、そういうものかもしれない。

 ネットを始めて(この表現は正しいのだろうか?)もう20年ぐらいになるし、たとえばTwitterも10年以上利用している。過去の発言や行いを掘り起こされたら、誠実に対応したくはあるものの、中には責任を持てないものも、「そういう意味によく取れましたね」と眉間にシワを寄せるものもあるかもしれない。

 「恥の多い生涯を送って来ました」とは思うけれど、第三者に恥を掘り返されて否定される生涯を送ってきたつもりはないわけで。

 仲がよかった人、付き合いのある人に、あとからなじられるならまだしも(ということは、どちらが悪いとも単純に言い切れないだろうし、自分にも何らかの理由があるのだろうから)、まったく知らない人が(しかも、この人が「まとも」だという保障などはない)いきなり刺しにくるリスクまで考慮していたら、自分のような人間は堪えられない。

 Twitterのフォロワーが、昔からいるアカウントに鍵付きの人たちが目立ってきたのを見て、世知辛いと嘆いていたけれど、そういう自衛は必要なのかな、という気もする。たとえ後ろめたいことがないと思っていたとしても、悪意をもった人間は、自分たちが火を点けたのに、「炎上した」と言うのだから。

 自分だって憤ることや不誠実な対応をされたと感じることはあるけれど、その人を名指しにしたり拡散しようとしたりすることはない。それぐらいの分別はあるつもりだけれど、問題は他の人にそれを求めるのは難しいという話だ(たとえば、AさんとBさんがLINEを通じてあまり倫理的ではないやりとりをしていて、その画面が流出したとする。そうなると悪いのはAさんかBさんかという話になるが、自分の感覚では流出させた人間がいちばん悪いと思う)。

 誰かを傷つけることに無頓着なわりに、傷つけられたことには敏感な人。そして、自分もそちら側なのではないか、という不安。

 生きづらいことが多いだけではなく、息苦しくもある。みんな、常に誰かのせいにしたり、怒っていたりする。

 そういう意味では、自分は嫉妬されることはないかもしれないが、かといって、保護される存在でもない。決して収入が高いとは言えないのだろうけれど、厳しいところに勤めたとしたら、2週間もつかどうかあやしいぐらいだ。生活のリズムや本人の資質や仕事のペースにあまりに偏りが見られる。適材適所なのだと思うことにしているけれど、仕事自体は、誰でもできるものだ。

 効率が悪い人間。何かあったら切られる側の人間。特別なものを持ち合わせていない人間。

 毎日、すこしだけ怯えて生きている。誰かに過剰な迷惑をかけていないだろうかと。それを掘り起こされて突きつけられ何も言い返せなくなるのではないかと。若い頃に息苦しくさせられた年上の人と同じことをしているのではないかと。自分が生きてきた空気感のネットはもうないのかもしれないと。

 そして、排除する/排除される側に分かれるとすれば、おそらくは後者になるだろうと思う。自分には特別なものがない。当たり前のことを当たり前の幸せとして噛みしめる力もずいぶんと弱い。

 それならば、noteに日記(ともつかない短文)を残しているのは、なぜか。ネット文化に触れた時間が長かった人間の、呼吸のようなものかしら。

 いや、たぶん、唐突に思えるかもしれないけれど、小さすぎる「祈り」なのだと思う。これは、途方もなく大仰な表現だとしても。
 
 いつか自分自身を許せるように。匿名の関係ない人たちを視界に入れないように。やるべきことを見つけられるように。やらなくてよいことを見極められるように。自分が(すこしだけ)救われた世界の中で生きていく方法を探す思考を書き留めるように。過剰な敵対心を早めに刈り取って捨てておくために。とても陳腐な表現をすれば、幸せな生を見つけるために。

 あらためて書き連ねると、なんと子供じみているのだろうと思ってしまうけれども。「具体的な話がない」と、あきれる人もいるかもしれない。それは実行に移すことなので、わざわざここで書き連ねないというだけで。

 それは、たぶん自分を赦してほしいという祈りであるよりも以前に、自分と関わって削れてしまった人、自分よりも才能があったはずなのに世に出ることがなかった人、優しくしてくれたのにこちらが何も返せていない人への祈りであるように思う。

 そうだとしても、ずいぶんと虫のいい話なのは、わかりきっている。わかりきっているのだ。

 Prefab Sproutに(彼らの音楽は、もちろんすべて好きだけれど)『Jordan: The Comeback』という、ただただ美しいアルバムがある。次にどう進むのかわからない凝ったメロディー、ロマンティックとしか言いようのない雰囲気、Thomas Dolbyの過不足ないプロデュース。きらめくように若々しく、どこまでもミステリアスでもある。初めて聴いたときから、特別な1枚になると確信できたアルバム。

 少し前に、ひどく落ち込んだことがあった。調子にのってたいしたことができなかった上に、自分より若い人が、あっさりとこちらよりも優れた振る舞いをしているところを、まざまざと見せつけられた。30をすぎれば、よくある話ではある。とはいえ、落ち込んだのも事実。帰り道、ほしい音源もないくせに、気分をすこしでもまぎらわそうと、中古レコード店に入った。

 そこで、『Jordan: The Comeback』のハイライトである「One of the Broken」が流れてきたとき、大げさではなく、その場に崩れ落ちそうになった。前から好きであったものとはいえ、ここまで、傷ついた心にひたひたと沁みわたって、澱の中からすくい上げてもらうような経験は、いくら音楽が好きだといっても、人生の中に何度もあったことではなかったから。

Sing me no deep hymn of devotion
Sing me no slow sweet melody
Sing it to one, one of the broken
And brother you're singing, singing to me

 傷つくこと、傷つけることを、人生の中からゼロにはできないかもしれない。せめて、傷ついた者へ祈れ。そこからやるべき行動の姿も立ち現れてくるのだと思う。

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