20/10/02 日記

 体調が悪いので、火鍋を食べるというショック療法。さまざまな薬膳のスパイスが身体に効くかと言われると、逆にいろいろな刺激で身体がびっくりしてしまったような気もするけれど、どうなるのでしょう?

 ネットなどでよく見聞きし、人生が終わったという人もいるらしいけれど、実際に自分の周りで起きたという話は聞いたことないな、という系のトラブルを仕事で目撃し、苦笑するなどした。それほど大事にはなりませんでした。

 10代の頃は学問の世界で身を立てたいと考えていた。残念ながら、モノにならなかったけれど。そのとき、若いながらに、「中途半端な知性はその世界にいてはいけない」と思ったので、すっぱりと断念した。ずるずると続けて、年齢だけを重ねていく上の人たちを見ると、よくないことだなと素朴に感じていたこともあったし。

 いずれにせよ、アカデミックな世界は、(しょうもないこともたくさんあるけれど)、自分にとっては憧れだった。だから、ネット上で目立つ学者の何人かを取り上げて、特定の学問のジャンル全体を馬鹿にしている人を見ると、悲しくてなってしまう。

 確かに、どうしようもない学者もいるけれど、彼らとて、努力をして、夢を叶えてきた人間なのだ。その入口に足を踏み入れようとして、なんとか奮闘してきた者として、その成果を認めないわけにはいかない。

 学問の世界で身を立てられた人。自分が望んだのに得られなかったものを持っている人。他にも、立派な家庭を築いたとか、仕事で誰もが認める成果を上げたとか。そういう人たちが、馬鹿にされたり苦しそうにしたりしているのを見ると、身勝手な話だけれど、どうしてそうなるんだろうと悲しくなる、幸せであってくれないと、「そんなのって、ないだろう」と言いたくなる。

 もっとも、そういう人を見ると、やはり、何者でもない自分と比べずにはおかない。

 「死にたい」というワードが頭に浮かぶときもある。本気で思っているのではなくて、基本的には楽しく生きたいと考えているし、自分の力でそれなりに仕事で貢献したいと思うし、親しい人にはにこにこしていたい。

 ただ、力が及ばなくて、睡眠もうまく取れず、自分が情けなくなるとき、愚かにも「死にたい」というフレーズを、安易に出したくなってしまう。生きるのがつらいことそのものよりも、「生きるのがつらくて耐えがたくなり、何かをきっかけにいつか本当に死を選ぶのではないか」と自分の弱さに虚しくなるという感覚。

 こんな人間が、社会であと何十年も生きていけるのだろうか。あるいは、あと誰かと暮らす、などということは可能だろうか。

 実家になかなか帰れない今、両親の病気の話などを聞いていると、たまに「親に孫の顔を見せたい」と思うものの、「結婚して家族を持つことを、古くさい自己実現の道具にするな、誰かの人生を安易に巻き込むな」という思考も出てくる。そういう自分の中の相克に対して、どう向き合うべきか。

 「そういうことは結婚できるようになってから考えなさい」というご指摘もあろうかと思います。ごもっともです。


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