【超個人的感想】中園孔二 ソウルメイト
香川県丸亀市猪熊弦一郎現代美術館で開催された、中園孔二さんのソウルメイトを鑑賞してきました。それから感情の嵐が収まらず、心落ち着かせるためにnoteに残そうと思います。嵐が去った後はだいたい晴れる。晴れたら今まで見ていたのとは違う景色を見たい。
気になって仕方ない存在
なんとなく眺めていた「日曜美術館」で中園孔二さんの存在と今回の展示を知った。絵柄が好みだったので気になってしばらく眺めていた。
8年間で600点もの作品を残し、移住先の香川、瀬戸内海沖で消息不明となった。25歳という若さ、死、独特な世界観の作品たち、メッセージ性、すべてが相まって番組を見終えた後も気になって仕方なかった。
巡回なし。香川へ行く準備をした。
表現はコミュニケーション
言語も、私にとってはすごく好きな表現方法だが、時にそれに囚われすぎたり縛られたりして、苦しくなることもある。コミュニケーションは言語だけで行われるものではない、と今回の展示で教えてもらえた気がする。中園さんが人間との直接的なコミュニケーションに捕らわれず、作品を通して、絵を描くという行為自体、または海に潜ることで「土地とのコミュニケーション」を図るなど、あらゆるもの、あらゆる方法でコミュニケーションをとろうとしていたことが印象的だった。言葉がなくても発生するコミュニケーションは至るところにある。
展示とともに添えられた言葉や、インタビューでも片鱗を感じることができた。
鮮やかで、悲しくて、洪水のようで
実際に作品を目の当たりにして感じたこと。
それぞれの作品から、空間自体にエネルギーが洪水のようにあふれている。
作品にたましいをこめるって、本当にできるんだ。
そのたましいを感じ取るために作品に向き合うことも立派なコミュニケーションだなぁ。
人物のようなシルエット、さまざまな表情として読み取れる顔のようなモチーフ、抽象、暗がりの景色。笑った表情でももの悲しさを感じたり。
一見単純に見えても、ものすごく多面的で、何層にも織り込まれた複雑な要素を持っていて、もっと知りたいと思わされる。
(素人なので絵それぞれの感想は心の中にとどめておく)
変わらない景色ってなんだ?
モニターで流れていたインタビューで中園さん自身が、「中心に見えている景色は一個、何が描かれているかは重要ではない…」とおおよそそのようなことを話していた。
一個の景色、変わらない景色ってなんだ?
同じ景色でも、人の捉え方によって見え方が変わる。事実としてある景色は変わらないという事?人間に共通する感情のことだろうか?程度の差や経緯、構築される経験は違えど、最終的に行き着く先はシンプルで共通している、ともいえるだろうか。はたまた、それらも超越した、もっと大いなること?生死や、何なら宇宙まで次元や時空を超えているような気さえする。
言葉がなくても
作品を観て泣いている人を見かけた。作品をみて感情が動くこと。私も同じように感情が動いて収まらず、少し泣いた。そのため、会話はしていないが、その人を少し近くに感じた。私は中園氏が見た景色を見たいと思い会場に足を運んだ。同じように会場に集まった人同士の、会話をするでもなく発生した空気のようなコミュニケーションもあったようにも思う。
生死について、考えざるを得ない
私自身が興味を強く惹かれた要素のひとつに、「25歳の若さで亡くなってしまった」ことが全く関係ないと言うと、嘘になる。まだこの世に生きていてくれたなら、その人自身の変化や新しい作品も観られただろうな。でもそれが絶たれている。どうしたって重く受け止めてしまうし、フィルターがかってみてしまう。
死ってなんだ、死んでいたら特別か?生きてたらどうだ?
陳腐な言い回ししか出てこない。けれど、短い期間でもこれほどエネルギ―を注いで、8年間という期間に対しては多すぎるくらいの作品を残して、こんなに見る人に多くを訴えかけて、感情をうごかして、救われている人がいる。その場で伝わらなくたって、種をまいて、何年後かに芽が出てくることだってある。コミュニケーションをとっている。この世でまだ息してるみたい、ずっと生きてるみたい。
まとめ
めちゃくちゃ快晴の香川県丸亀で、この展示を観られてよかった
私は自分の考えなどを人に伝えることが「怖い」という恐れがあるのだが、あまりにも感情があふれると、整理したくなるし、誰かに共有したくもなる。その壁を壊すための遠出でもあった…。こうしてnoteを残せた。そしてうどんおいしい。香川いいところ。
次はたぶん国際芸術祭で、また会おうね香川。
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