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『完全無――超越タナトフォビア』第三十六章

さて、「世界の世界そのもの性」に触れるための、すなわち前-最終形真理を超え出るための鍵が、完全無であり、完全有なのですが、宇宙物理学的なビッグバン宇宙論やサイクリック宇宙論、さらに定常宇宙論や準定常宇宙論などとも等根源性を共有しません。

完全無、そして完全有という概念はややこしい言葉ですので、ウィッシュボーンも精確には理解していないのですが、もちろんプラズマ宇宙論や多元宇宙論とも違います。

なぜなら、宇宙の解釈、解明だけが無や有の解明の全体に相当するわけではないからです。

宇宙に始まりはあるのか、終わりはあるのか、宇宙に外側はあるのか、内側はあるのか、宇宙に無限なのか、有限なのか、という問いの立て方、そしてその問いへの解答だけでは不十分だということであり、きつねさんの唱えるところの単純な【理(り)】というものは、さらにその先の【なぜ何もないのではなく、何かがあるのか】という問いが、果たして成立するのか、答えるに値する問いなのか、どこまで答え得るのか、という地平を解剖することを求めるからです。


なにゆえ人類は言葉を増やすことに快楽をおぼえ、複雑なものをただそのままに複雑化することに熱意を注ぐのか、それが解せぬ、とたびたびきつねさんはおっしゃっておりました。

【理(り)】というものは今ここでは言葉として表現せざるを得ませんが、その実質は、むしろあらかじめ言葉を超出しているといっても大げさなことではないと思います!

ニーチェの「永劫回帰」の思想よりもさらにポジティブな生の超超人哲学であり、天と地からの完全なる埋没であり、脱却であります。

徹底的懐疑、絶対的懐疑からの飛翔であります。

ですが、きつねさんは、ただの詩狐(しぎつね)の直観認識力がもたらす経験知かもしれないよ、なんて軽くおっしゃいます。


しかし、ウィッシュボーンにはこの【理(り)】をとてつもなくアメイジングで、グレイスフルなオントロギッシュ観、つまり存在論的観点だと思っており、このように賛美に次ぐ賛美、古代インドの聖典であるヴェーダ群のような様相を呈したいところですが、それはこの作品においては遠回りなだけなので、必要最小限に留めたいと反省しているところです。

過度の賛美は、しろさんでも一口でお腹一杯になってしまうくらいのカロリーだと思いますし。


そして、ちょっと話がずれてしまいますが、要は、人間が鉛筆で書いたような「点」ではなくてですね、数学的な、長さも幅もない、位置としての「点」のようなもの、それが【理(り)】に近いのかな、と思い付いたりもしますが、おそらくどこか前の章でも同じことを口走っているかもしれませんね……。

「点」についてのシミュレーションにおいて、もっと精確に突き詰めるとするならば、世界そのものには位置すらないのかもしれません。

位置があるということはですよ、位置を極度にミクロ的な観察を施したときに、空間という「間」があるということになり、それは【理(り)】に反するのではないでしょうか。

無限でも有限でもない「ある」というだけの、そしてその「ある」という存在すら無化してしまうような世界を想起すること。

それは仏教において「空(くう)」すなわち非有非無(ひうひむ)を認識するだけでは埒が明かないので、「空(くう)」そのものを――空(くう)ずる――それこそが真の「空(くう)」なのだ、という見解が一部にございますが、そういった無化というプロセス、それこそが前-最終形真理からさらに核心へと迫るためのキーワードのひとつなのではないでしょうか。

しかし、きつねさんは、プロセスそのものを認めませんから、無化ということに関して、素敵な解釈を教示してくれるのではないかと、期待している今日この頃であります。

無化という概念にも対義語がございますし、おそらくはこのように対義語が思い付いている時点で、ウィッシュボーンのきつねさん思想の解読は誤読に横滑りしているのかもしれません……。

そこでですね、「世界には対義語がある」なんて文章や見解や野次やディスリスペクトに遭遇しましたならば、ウィッシュボーン、これからの人生、いえ! 犬生(いぬせい)において黒く塗り潰してしまおう、と今ここに決意致しました!


それから、こんなことも思い付いてしまったのですが、たとえば、定規の端っこの部分を、とある主体が勝手にゼロという基準点として無邪気に定めてることが巷ではよく見受けられますが、定規の端っこという部分は世界のゼロ地点には成り得ないですし、その定規を持つとある主体、たとえば、たおやかなるチビさんの右手の指、その指先の先の先の先の、もっとも先の尖ったところこそが世界の原点であってもいいじゃないか、とも考えられますし、チビさんの指の先と連続性を分有している、えげつないほどにキューティーなその尻尾の先の先の先の、もっとも先の尖ったところこそが世界の原点であってもいいわけですし、さらに、チビさんの身体を越えて、チビさんのお部屋や、チビさんのお家(うち)、そしてそのお家(うち)が建っている地面の先の先の先すらも世界の原点であってもいいわけではございますが、しかし、連続性という概念がその存在性を世界に暴露されている限りでは、世界の原点と称されるすべての事物はその途中経過に過ぎないのであって、決して定点としての原点には成り得ないのではないでしょうか。

世界には本来的には基準点などないのです。
ですから「幅」を持つ事物が存在することはあり得ませんし、世界は「数」という記号、それも恣意的に人間が定めたに過ぎない汎用性無き表現では、世界そのものは愚か、あらゆる自然現象に対してすら精確なる定義を与えることはできないと思うのですが、言い過ぎましたね。

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