人はもっと大胆になれる

雨だよ、と告げてあなたに降りかかるわたしに雨の才能ありぬ
/大森静佳 「ヘクタール」

一読してその大胆さに驚く。わたしなら下の句は「わたしは雨の真似事が好き」とでもしてしまうだろう。「雨の真似事」でもよくできた比喩だと我ながら思う。けれどどこか幼い感じも出てしまう。そこを「雨の才能」とすることで見事に大人の世界を描ききったというか、やはり何度も言ってしまうがこれは〈大胆さ〉の為せる技なのだった。

最近の野球にあまり詳しくないが、大谷翔平の活躍を目の当たりにするとき、ほとんど例外的な一例を除いてまっさらだった日本人メジャーリーガーの歴史に一歩を記した野茂英雄が「日本人でもメジャーリーグでプレーできる」ことを実証した意味は大きいと思う。最近の日本球界でも、ノーヒットノーランが一度出るとその後二度三度と続いたりしたことがあった。人はそれまで無理と思われていたことが実現するのを目の当たりにすると「自分にもできるのかもしれない」と思うものらしい。今までは高い壁が立ちはだかっていたと思われた道には今日、遮るものは何もない。とすれば壁を建設したのも一夜にして取り壊したのも、自分自身の力に他ならない。

近い例だと、うたの日でも三日四日と同じ人が連続して首席になることがある。おかしな話で毎日顔ぶれも人数も違うし、それに昨日見たような歌なら、よし、こいつは外してやれなんて意地悪をされても不思議はない。けれどそうやって連続して良い結果を出すというのは、作者の側の〈大胆さ〉でしか説明がつかないような気がする。一度自信をつけた人は「あ、この道行けるのね」と思ったらその魔法が切れるまでずんずん進んでいける。それを繰り返すうちに魔法の持続する時間は徐々に長くなり、そのうち魔法の効いている方がふだんの自分になっていく。

わたしたちはもっと大胆になっていいと思う。

(了)