“Fire Shut Up in My Bones”
テレンス・ブランチャード作曲の三幕のオペラ”Fire Shut Up in My Bones”を映画館でみた。ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場が千秋楽に上演したものを映像化したものである。
標題は原作を書いたC.M.ブローがエレミヤ書20・9から引用した章句である:「もしわたしが、「主のことは、重ねて言わない、このうえその名によって語る事はしない」と言えば、主の言葉がわたしの心にあって、燃える火のわが骨のうちに閉じこめられているようで、それを押えるのに疲れはてて、耐えることができません。」
一幕目から、たしかに不安ではあった。イタリア語でつちかわれてきたベル・カント唱法が、英語にそっくりそのままうつせるはずがない。とくにファルセットの高音がひびくと歌詞がよく聴き取れない。これは英語の発音の問題なのか、脚本のセリフが多いせいなのか、音響のせいなのかは、わたしにはわからない。字幕がなければとても機微が伝わらなかっただろう。
それでも、一音一音を経るごとに段々と耳が訓練され、物語にいざなわれ、実際二幕目以降はより歌詞が明瞭にあらわれた。
プロテスタンティズムのパフォーミングアーツがオペラへと結集し、ある黒人の少年の性的トラウマを昇華させた、あらたな成果に、画面越しでも感涙とともに拍手を送った。かれがトラウマを母親に告白できたことは、個人の利益をこえた、救済のヴィジョンをもたらした。ホモソーシャルなマッチョイズムをも精神的に克服し、母親の悲恋と重労働をへた息子への愛が実り、たがいに抱擁して、たがいの苦難を理解しあえるようになったのだ。
拙速は巧遅にまさる。本作はヴェリズモ・オペラの大立物、プッチー二との相似が製作側から指摘されていた。しかしこれからは、陸続と新作が誕生して、あらたな幹と枝を生み出すことだろう。本作とその上演はそのつどかえりみられる里程標としての地歩をしめた。劇場のカーテンコールで、幼き主人公役の少年にささげられた紙吹雪のなんと壮麗なことか!黒人音楽の話法をオペラの文脈にもたらしたブランチャードが、黒人霊歌とジャズの声楽を劇場にひびかせたラトニア・ムーアが、後続の上演に比される日もそう遠くはないだろう。
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