生活の動詞〜読む〜


読書が好きだ、というと、たいていの場合好きな作家は?とか、月に何冊読むんですか?と聞かれる。

その質問にどう答えるかによって、人間性だとか読書愛の程度だとかを計られているように感じて、答えにつまってしまう。「あそこで◯◯が好きと答えたのは王道すぎたかな…」だとか、「『月に◯冊しか読んでないのに読書好きだなんて烏滸がましい』と思ってる目だったな…」などと、無意味な反省をしながら帰路につく、ということを今まで何度となく経験してきたので、会社では趣味が読書であることをひた隠しにしてきた。

先日、会社のとあるイベントで50代の男性上司と話す機会があった。
気さくな人ではあったが、アウトドアやらお酒の場が好きと聞いていたので、「結構本読むの好きなんだよね、加賀恭一郎シリーズとか全巻持ってるし」と言われたとき思わぬ共通点を見つけたことに驚き嬉しくなり、間髪入れず「あ、わたしもそのシリーズ好きです!」と答えた。
「え、好きなの?シリーズ全部読んだ?」と聞かれ、「(まずい、全巻読んだことがあるわけじゃなかったのに、好きだなんて早計だったか…?)」などと考えているうちに、「全部読んだわけじゃないなら、今度おすすめのやつ持ってくるよ!」と言われた。
思わぬ提案にいやいやそこまでは大丈夫です、と手をぶんぶん振って遠慮したが、「まあまあそう言わず。じゃ、またね!」とさーっと立ち去ってしまった。
まあ本が好きな人に見られる社交辞令の一種か、と勝手に納得したのだが、翌日、本当に何冊か本を抱えて職場に現れたので、またまた驚いた。
人に本を借りるなんて、小学生の頃、薄汚れた廊下の隅で先生にバレないよう、闇の取引みたいにBLEACHを借りて以来だった。
社交辞令で済まさず、忙しい中自宅の本棚からおすすめの本を見繕ってきてくれたのであろう、上司の気遣いに感謝して、ありがたくお借り、後日、本を返す時に今度はわたしのおすすめの本を何冊か貸すことにした。
それから、不定期ではあるものの、上司とわたしの、本を貸し借りし合う関係が続いている。

読書は、とことん個人の体験である一方で、自分だけの感情だと思っていたものが、実は別の誰かも体験しているという驚きや、表現できなかった気持ちに名前をつけてくれる喜びを与えてくれる。
また、著者と読み手の2者だけではなく、今回のように、自分と誰かとを思わぬ形で繋いでくれることもある。
つくづく、この世界に本があってよかったな、と思う。

そんなことを考えながら、わたしは今日も本を読む。
同じ本を、遠く離れたどこかで読む、誰かを想像しながら。

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