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タバコと口紅(第六話)

第六話

いつものベンチに、何も言わずに私の横にスッと座る男。

「もしかして、私忘れ物してなかった?」
「ああ、口紅?部屋に置いてある」
「そう…」
男はタバコを取り出して吸う。私はビールを一口。

「今日、実家に行った」
少しの沈黙の後、あの写真が頭に浮かんできた。
「母さん、母親に会った。というか、遠くから見ただけ」
「そっか…」
どうだった?とか、声かけなかったの?とか、そんなことを聞きたいとは思わなかった。感情のない世界に変わった今、本当が見えないと分かっていて声なんてきっとかけないだろうと思ったからだ。

「実家、近いの?」
「うん、電車で30分くらい。農家やってる」
「へー、いいね。そういうの好きだな」
「え、農業好きなの?」
「ごめん、別に」
お互いクスッと笑って、タバコとお酒。灰皿に伸びる手に目線がいく。

「ちょっとちょうだい」
「吸いたい?新しいのある」
「それでいい、試しにだから」
彼が手に持っていた、残り少ないタバコに手を伸ばす。別にタバコに興味があったわけではない。ただ、吸いかけのこのタバコを吸うことで、男の言葉に込められた感情を深く知れるような気がした。

「じゃあ、俺これもらうわ」と男はビールに手を伸ばす。
「ゲホ、ゲホッ」
私は当たり前に咽せる。
「やっぱ返して」
「はい、ごめん。口紅ついたかも」
「別に」
再び、タバコを吸い始める。

「口紅ってたくさん持つもんなの」
「うーん、持ってるんじゃない。なんかさ、色によって自分を使い分けてる感じ」
「じゃあ昨日のは?俺の家にあるやつ」
その答えを考えるのに、そんなに時間は掛からなかった。
「愛し愛されたいと願う優しい女…」
「なるほど」
何か答え合わせをしているような、男は納得したような表情で吸殻の方へ向かってタバコを潰す。

「口紅持ってくるわ」
「あ、別に今後でも」
とっさに出た自分の言葉に恥ずかしくなる。まるでまた会いたいと言っているかのようで…、でもまた会いたいと思う天邪鬼。
「じゃあ、来て。今日のより昨日の方が君らしい」

男の部屋に入ると、キッチンの上の写真の横に口紅があった。
「これ、持ってくね」

口紅を持って帰ろうとした瞬間、男は私の顔を自分の方向に向けた。
そして、今つけている口紅を指で拭い、置いていった口紅を私につけ始めた。

「こっちの方が似合う」
男はそう言って、私に優しく口付けをした。

男の顔と家族写真が少しずづ滲んでいく。流れる涙と共に、天邪鬼な自分が消えるのが分かった。
「ごめんなさい…私のせいだ。でもどうすればいいのか分からない」
晴れ予報だった天気、雷と大雨へと変わった。

大荒れの翌朝の天気は快晴だ。
男は隣でまだ眠っている。
私はベランダにでて風に当たりながら写真を眺める。間もなく男も起き上がり隣にくる。

「何してんの」
「おはよう。うん、ちょっと」
とっさに写真を隠した。全てを悟った今、隠す必要もないだろう。ただ、物理的に隠せない男への罪悪感を少しでも隠したかったのかもしれない。

「今日も行こうと思ってる。実家」
男は何かを決心したような顔つきだった。
「私も行きたい」
私も迷いはなかった。
男は部屋に戻ってタバコを手に取り、戻ってきた。口紅も一緒に。
「また忘れんなよ、これ」

電車に乗って男の実家に向かう。
何を話すわけでもなく、揺れに身を任せて舞台セットに溶け込む。むしろろキャストは男と私、二人だけ。
男が何のためにまた実家に行くことを決めたのか、これから何が起こるのか、会話をしなくても分かった。 

電車を降りる。
昨晩の出来事とは打って変わって、長閑でゆっくりとした時間が流れている。男の実家に向かう道すら会話はない。

「あれ、あそこだから」と指をさし、私に目を向ける。
「そうなんだ。ここで育ったんだ」
「うん。刑務所に行く前まではここに住んでた。母親と弟と三人で」
あの写真が頭に浮かぶ。
“大丈夫”なんて無責任なことを声に出して伝える資格などないことはわかっていた。
私はただ、男の手を握った。

庭で草むしりをする女性がいた。私はすぐに男の母親だとわかった。
二人がお互いの存在に気づくのは時間の問題だろう。
女性が腰を上げて振り返る瞬間、
「母さん」
と男が言った。その声は今まで聞いたことがないほど細く、深く奥底で震えていた。
女性の表情に大きな変化はない。ただ体は過去を覚えているのか、何かを悟ったかのように、持っていた軍手を落とした。

男の母親は男が誰なのか分かっているはずだ。でも、男がなぜここにいるのか、何をしに来たのか、今まで何をしていたのか、そんなことには触れず、久しぶりに帰省した息子を出迎える母親のように、声をかけた。
「ああ、帰ったの。そちらはどなた?」
「あ、知り合い」
「こんにちは、初めまして」
男が言うように、私たちの関係は知り合い以上でも以下でもない、ただ恋人よりも他人よりも薄い層で繋がった堅い関係だ。

(第七話に続く)

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