極端な人

いわゆる特撮ヒーローなどの世界では、良い人と悪い人がはっきり分かれていてわかりやすい。

以前、ドラマを観ていた時に知人から登場人物について質問をされた。
「この人は悪い人?」
と聞かれたので、おそらく悪い人ではないよと答えると
「じゃあ良い人なんだ。」と納得していた。

このように二元論でしか物事を捉えられない人を、考え方が極端な人と呼んでいる。
ちなみに極端の反対は中庸とされている。

このような人はおそらく仕事や私生活でも色々と不便が生じるはずだ。
社会は綺麗に2で割り切れないことのほうが多いし、その度にやり切れない思いを感じることが多いだろう。(これはあえてのダジャレ)
無理やりどちらかで評価することが習慣化していると、対象について誤った認識を持つ原因になりかねない。

ビジネスでは結果の白黒だけを求められるから支障は無い、と主張する人もいるかもしれない。
ほとんどの場合においてそれは誤りである。
なぜなら、結果に至るまでの道程は灰色だからだ。
白黒のついた道ならそれは結果の一部と言える。
結果が灰色である場合も大いにある。

そもそも善悪などの評価は観察者によって決定されるものだ。
自分の中にしか存在しない、とも言える。
法律に定めがない事象についての評価は、個人の「こうあってほしい」という単なる希望の多数決に過ぎない。
つまり、現実には事象そのものが存在するだけで、そこに善悪それ自体は存在していないということだ。

存在しないものについて思い悩むのは無駄である。
いちいち善悪や白黒を考えるより、目の前の事実はどういうことであって、自分はどう行動すべきかに思考を巡らすほうが健全だろう。

人は社会や人間の複雑さに触れるうちに、1つの存在のなかに善悪白黒が交絡していることをなんとなく理解して大人になっていくものである。

それは、曖昧さを受け入れられる程に自身の器を大きくする作業だ。

極端であるということは、若いということである。
それは潔さであり、幼いということでもある。
反対に、中庸であるということは、老いているということである。
それは寛容さであり、大人であるということだ。

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