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リアリティ・トランサーフィンの考察⑰『どうすれば理性の働きを弱めることができるのか』

第2巻の内容に行く前に、ちょっとおまけです。

前回の記事では、「状況から少し距離を置く」ということについて見ていきましたが、状況と距離をとるためには、理性の働きがほどほどに抑えられることが必要だということでした。

理性とはいわば左脳的な意識、あるいは分析的な意識といってもよいでしょう。理性はつねに「なにが正しいか」を基準に働いています。この理性がなければ、人間は他者とうまくコミュニケーションしたり、ものごとを判断・評価することができません。でも、理性にとっての正しさとは言ってみればその人にとっての正しさでしかなく、そのため、その基準で行動している限り、うまくいくことよりも、うまくいかないことのほうが多かったりします。

その人が自分の幸せを願うその心こそが理性なのに、現実には理性がその人を幸せから遠ざけ、人生を困難なものにしてしまっているというのはなんとも皮肉な話ですが、でも実際そうなんですよね。

さて、状況から少し距離を置くことができたら、次はどうする? どうなる? という話はトランサーフィン第2巻の内容とともにゆくゆく見ていくこととして、その前に「どうすれば理性の働きを弱められるか?」ということについて考えてみたいと思います。

理性を抑えろ、と言われて「なるほど、わかった!」となればよいわけですが、そんなにうまくいくものなら、そもそも理性が働きすぎることもないわけです。また、状況から距離を置くといったところで、その状況というのは頭の中にあるわけですから、ここでもまた、「どうすれば?」となってしまうわけです。

おおかたの人は「理性を抑えろ」と言われれば、「落ち着けってことだな?」と考えるでしょう。状況から距離を置いたほうがいいよ、とアドバイスされたときも、やっぱり「そうか、ちょっと落ち着いたほうがいいか」って、なるのではないでしょうか?

落ち着くためには、たとえば深呼吸をするのがよかったりしますが、落ち着くということも、実は理性を抑えるというのと一緒で、落ち着こうと努力したからといってうまく落ち着けるとは限らないものです。深呼吸すれば落ち着けるというのは確かにそうなんですけど、落ち着いたところで理性もほどほどに弱まっているかというと、そうでもなかったりします。落ち着くと冷静になるといいますが、冷静さということを丁寧に調べていけば、そこでは依然として理性が活発に働いていることに気づくはずです。

つまり、なにが言えるかというと、実は、理性を抑えるための方法については、ほとんどの人はそれを知らないということです。なぜかというと、理性というものの本質がなんなのか、よく分かっていないからです。瞑想を長いこと習慣にしている人のなかには、確かに理性(左脳意識)が弱まっていく人もいます。でも一方では、理性が弱まるというのではなく、単に明晰になっていくだけの人も少なくありません。(もっとも、明晰になることはよいことではあります)

いずれにしても、なぜそうなるかというと、やはりこれも理性や思考の本質、もっと正確にいえば正体に気づくことができていないからです。

そこで、ここでは理性を抑えるための理にかなった方法を紹介したいと思います。理にかなった方法なので、誰でもそのやり方を知れば、必ずうまくいきます。そして、この方法を覚えてつねに実践するだけで、あなたの意識レベルは相応に上昇するはずです。ではさっそく見ていきましょう。

ちなみに、理性にとって「わたし」とは理性自体をふくむ自我意識と肉体のことなので、理性は自我(エゴ)とイコールだといってもよいです。ですから、これ以降の文章はすべて、理性を自我あるいはエゴと読み替えていただいても結構です。

カクテルパーティー効果

カクテルパーティー効果という言葉をご存じの方は少なくないと思いますが、ここではその意味を Wikipedia から引用してみます。

カクテルパーティーのように、たくさんの人がそれぞれに雑談しているなかでも、自分が興味のある人の会話、自分の名前などは、自然と聞き取ることができる。このように、人間は音を処理して必要な情報だけを再構築していると考えられる。

Wikipedia「カクテルパーティー効果」

わたしはカクテルパーティーなどというお洒落なイベントに参加したことはありませんが、居酒屋だとか、休憩時間の教室だとかといった騒がしい場所を思い浮かべるとよいはずです。こういった場所でも、自分が会話している相手の話はもちろん、自分にとって必要だと思われる情報は聞き分けることができますね。これがカクテルパーティー効果と呼ばれるものです。また、次のようにも書いてあります。

カクテルパーティー効果とは、音声の選択的聴取 (selective listening to speech)のことで、選択的注意 (selective attention) の代表例である。

つまり、カクテルパーティー効果という言葉が意味しているのは、人間は必要な情報を選択的に聴き分けることができるということで、それは選択的注意と呼ばれるものの一つであり、かつ、その代表的なものである、ということです。

ここで確認しておきたいのは、選択的になにかを聞き分けているということは、それ以外のものは聞こえてこない、ということです。ここが大事なところです。

実際には、人間の耳には、環境音のすべてが届いているはずです。つまり、すべて聞こえているはずです。ところが、自分が聞こうとしている音以外は、意識にはのぼってきません。これは、人間の脳がそのように情報を処理するようにできているためです。

しかし、やろうと思えば、カクテルパーティー会場であれ、居酒屋であれ、その場でしているすべての音が聞こえるようにすることはできますね。その場合、目の前の相手が喋っている話の内容はしっかり頭に入ってこないかもしれませんが、とにかく聞こえてはいます。

つぎに、視覚のことを考えてみます。

実は、ものを見るときにも、カクテルパーティー効果と同じように、選択的注意が行われています。なにかに注目するとき、そのなにかは視界の真ん中にきますが、それをしっかり見ようとすると、それ以外の周辺視野にあるものはぜんぶぼやけてしまいますね。

そのときに視界の隅の方でなにかが動いていると、今度は注意がそこに向きます。鳥が飛んでいたり、自動車がこちらに向かって走ってきていたり、ということがあるわけですが、鳥や自動車をしっかり見ようとすると今度はそれらが視野の中央に動き、さきに注目していたものも含めて、それ以外のものはぜんぶ周辺でぼやけます。

人間の視覚がそのように出来ているのは、なにかを他のすべてから区別してしっかりと見極められるようにするためなのですが、実は視覚に限らず、聴覚も触覚も味覚も、そのようになっています。というのも、それが人間の知覚の基本的な仕組みだからです。人間が特定のなにかを把握し、分析し、理解するためには、まずそのなにかを「それ以外のすべて」から切り離さなくてはなりません。言いかえれば、まずそのなにかについての境界線を定める必要があるということです。それができてはじめて、「これ」とか「あれ」とか「わたし」とか「あなた」といったように、なにかを指示することが可能になるわけです。

この、なにかを「それ以外のすべて」から切り離す、あるいはなにかについて境界線を定めるというやり方で生み出されるものは、すべて二元的な認識です。すなわち、二元論というのは人間の知覚に由来するものの見方でしかなく、自然(世界)には本来、境界線などどこにもありません。ゆえに、この二元論は錯覚の産物であり、二元論で見ている世界は幻想である、ということになります。これが非二元(ノンデュアリティ)の言わんとしていることです。

ところで話は戻りますが、ものを見るやり方として、普通はさきほど書いたように見たいものを視野の中心(中心視野)に捉え、そこに焦点をあわせます。しかし、そうしようと思えばその場の音がすべて耳に入ってくるように、やろうと思えば視野の全体を見ることもまた可能です。

聴覚のときと同様、この場合も、視野のなかのどこにもピントはしっかりとあってはいないため、ものを詳細に見るということはできません。そして、それをしようと思った瞬間、そこに焦点が生じ、周辺視野がぼやけてしまいます。

でも、詳細に見ることができないからといって、見えていないわけではありませんね? どこかに焦点をあわせているとき、それは「見ている」のですが、どこにも焦点をあわせていないときは、見ているのではなく「見えている」という感じになると思います。

聴覚でいえば、カクテルパーティー効果が現れているときは「聞いている」状態で、すべての音が耳に入ってくるときは聞いているのではなく「聞こえている」状態です。

この「見ている(=見る)」とか「聞いている(=聞く)」という、動詞の主語はというと、それが理性であり左脳です。そして、「見えている」ときや「聞こえているとき」、そこには理性(左脳)はいません。そこでは魂(右脳)がただ、「いまここ」にあるものに気づいている、ということが起きています。

実はこのように、視覚や聴覚をつかえば理性の働きを止めることはとっても簡単なのです。このことだけ知っておいて、状況と少し距離を置く必要があるなというときにやってみる(つまり、見ているから見えているの状態に切り替えること、聞いているから聞こえているの状態にシフトすること)だけでも、効果はてきめんです。

でも、それよりももっと効果的で、かつ、意識に劇的な変容を促す方法があります。

それは、視覚や聴覚に使ったのと同じ方法を思考にも使う。ただこれだけです。状況から距離を置くという話がでてきていますが、そもそも状況というものが思考によって作られていることはお分かりいただけると思います。

では、思考とはなんぞや? というと、それは知覚から入力された情報やそれに伴う印象、あるいは過去の記憶を想起することをきっかけとしてはじまる連想のことです。もちろん、思考を定義するにはもっと色々な表現が可能です。しかしここで言いたいことは、思考は知覚が生みだしているということです。

そして、そうであるなら、思考も本質的に知覚とおなじ仕組みで働いているということができます。具体的にいうと、人は意識にのぼってくる無数の情報や印象のうち、そのとき重要だと感じるものに焦点をあわせてそれを捉え、そして、それについて『自動的な』連想をはじめるということです。

実は、人は自分の意思で「これを考えよう」「これについて考えてみよう」と決めて思考しているわけではありません。

思考そのものはどこからともなく意識にのぼってくるのです。たとえば誰かと喋っているとします。その話し相手があなたになにか尋ねたとき、あなたの意識にはなにが起きているでしょうか? これは徹底的かつ丁寧に調べなければなかなか見つからないと思いますが、実はそのとき、あなたはなにも考えてはいません。「相手の言葉を受け取った印象と、その印象をもとに適切と思われる返答(を考えて決めたという思考)」がただ浮かんてきて、あなたはその思考をつかまえて、自分のものにするだけなのです。

瞑想、とくにヴィパッサナー瞑想(マインドフルネス瞑想も似たものです)と呼ばれているやり方のそれは、自分の思考や感情、あるいは体の感じなどに気づくことを目指しているとされています。じっさい、これらをやりこめば、いわゆる「気づきのある状態(=マインドフルネスな状態)」にはなれます。さきほども瞑想についてすこし触れましたが、マインドフルネスなだけでは、理性は弱まりません。見かけ上は理性が弱まったように見えても、それは理性が理性自身を冷静に見ることができるようになった結果、明晰になっているだけなのです。

ヴィパッサナー瞑想をやることによって得られる本当の恩恵はマインドフルネスではなく、「思考が生まれてくるその瞬間に気づける可能性があること」だとわたしは思っています。言いかえれば瞑想中にじっくり思考について調べることによって「実は人間は自分の意志で思考していない」ことを発見できる可能性がある、というものです。

これはつまり、自由意志はないということです。もちろん、見かけ上は人間は自由に選択しています。でも、それは実は「自由に選択しているその思考過程」がどこからともなく意識上にあらわれて、それを選択的注意によってつかまえているだけなのです。

このとき、その人には「自分でそれを考えている」という感覚がありますが、実際にはつかまえた思考の内容を意識でなぞっているだけです。思考の内容が書き込まれたデータをつかまえて、それを意識(このときの意識とは理性のことです)が再生しているというイメージでよいと思います。

思考がどこから来ているのかは、わたしも知りません。確実に言えるであろうことは、それが潜在意識を経由して顕在意識にあがってくる、ということだけです。おそらく、潜在意識は魂と呼ばれているものとつながっていて、魂はこの物質次元よりも高次の次元につながっていると思われるので、思考はすべて高次元からやってきているのでしょう。

もっといえば、体を動かすのも自分の意志ではなく、体が勝手に動いているのを脳が自分で動かしているように錯覚しているだけです。悟りと呼ばれている意識レベルの領域に近づくと、こういうことがすこしずつ明らかになっていきますが、ここではこの話はここまでにしておきましょう。しかし、本当にそうなっているかどうか、調べてみることは誰でもできますので、やろうと思う人はやってみてください。

なにかを思い出そうとして思い出せないということがあります。これについて熟考してみてください。思い出す、というとき、あなたはなにをしているでしょうか? 脳の中のどこかに存在する記憶のデータを検索しているのでしょうか? そんなことをどうやって脳に指示しているのでしょうか?

また、そのとき思い出せなかったことが、しばらく時間をおいて、ふと思い出されるということもあります。このとき、ふと思い出したことについて、あなたはなにかしたのでしょうか?

なにかを急に思いついたことはありませんか? アイディアが突然うかんできたことはありませんか? インスピレーションが湧いたことはありませんか? こうしたとき、あなたはそこで、なにをしましたか? なにかしていましたか?

これらについて考えてみてください。これが調べてみるということです。そして次に、こうしたことと、普通に「考える」ということとを比べてみてください。そこに違いはあるでしょうか? もしも、どこにも違いがないのだとしたら、どういう結論になるでしょうか?

思考について調べるためのインストラクションを追記しておきました

さて、いまの話の大切なポイントをまとめると「無数の思考が、つねに、どこからともなくやってくる」というところです。カクテルパーティー会場における声や物音のように、人間の頭のなかでは無数の思考という音や声がつねに鳴り響いています。その声には大きいものも小さいものもあり、また、明瞭なものもあれば、まだ言語化すらされていないぼんやりとしたものも含まれます。

こうした無数の思考のうち、理性が選択してつかまえたものが「いま考えていること」です。ほんとうは、それ以外にも思考はたくさんあるのですが、理性が焦点をあわせたそれだけが「いま考えていること」として意識されます。

視覚や聴覚と違って、思考をとらえる理性の働きはふつう、まったく自覚されていません。ですから、「いま考えていること」以外の思考に気づくことも、まずありません。

でも思考だって視覚や聴覚とおなじ、知覚の産物なのだから、同じようにやってみることができるはずです。そう、「見ている」から「見えている」へと同じシフトを頭の中の思考にたいしてやればよいのです。試しに、目をつむった状態で、「見ている」から「見えている」へのシフトをやってみてください。それがそれです。それが、そのやり方です。簡単ですね。

具体的にはこれは「思考している」から「思考がある」へのシフトになります。思考については、それに焦点をおいて見ているということは、それと一体化してそれを考えている、ということになります。目を開ければ外の世界が見え、目を閉じれば頭の中の世界、すなわち顕在意識のスクリーンに映っているものが見えます。

ちなみに、目をつむって「聞いている」から「聞こえている」のシフトを行っても、やはり同時に頭の中では「思考している」から「思考がある」へとシフトします。ぜんぶ一緒です。

さて、視覚でいうところの中心視野と周辺視野に対応するものが、あなたの頭の中の意識のスクリーンにも存在しています。その頭の中の周辺視野をつかって意識にのぼってくるものすべてを、どこにも焦点を置くことなく、ただ眺めます。そうすると、いままでは「いま考えていること」しかなかったのに、実はそれ以外にも同時にたくさんの思考が「ある」ことが次第に分かってくるはずです。ここでついに、思考は「するもの」ではなく「ある」もの「見えるもの」であることが明らかになります。これが意識の変容のはじまりです。

瞑想をしていくうちに、自然とこのシフトが起きている人はけっして少なくありませんが、このシフトが起きていない人もまた多いです。それは何度も言いますが、ここまで説明してきた知覚のメカニズムについて教わったり、自分で気づいたりということがないためです。

でも、一度聞いてしまえば、それは全然難しい話ではないことがお分かりいただけたかと思います。

簡潔にまとめると、まず周辺視野を使って、フォーカスなしで眺める練習をし、カクテルパーティー効果と反対のこと、つまりその場のすべての音が耳に入ってくる状態を練習します

これらの練習に慣れたら、もうあなたの知覚は焦点を外すことに慣れたということになります。そうしたら、次はそれを思考にたいしても、同じようにやってみる。これだけです。これで、理性は弱まるどころか、その状態にある限り、理性はほとんど停止しています。

これらのことはすべて、実際には理性を抑えることによって知覚に変化を起こしているのです。知覚を操作した結果として理性が抑えられているのではなく、その反対が事実です。つまり、理性に直接的に働きかけて抑制させることは、実は簡単にできるというわけです。このことも、ご自分でやってみながら、本当にそうなっているかどうかじっくり調べてみてください。調べることが大切です。

あとは、この状態をなんども繰り返していけば、普段から理性の働きが以前よりも抑制されるようになっていくはずです。

ちなみに、この状態になると、脳の後ろ側の血流が増える感覚があります。 右とか左とかではなく、両脳の後ろの方です。これがどういうことを示しているのかは分からないですが興味深いと思います。みなさんも、やってみたらこの感覚が分かってくるはずです。この感覚があるときは理性が働いていないときだと思ってもよいでしょう。

最後に、このことに関連した情報を書いておきます。

実は、デヴィッド・R・ホーキンズ博士が意識レベルを高めるために推奨するトレーニングがここでも扱った「焦点なしに視野全体を眺める」というものです。このとき、通常の視野が霊的な視野に置き換わると博士が述べていることがわたしにとって印象に残り続けています。

そういえば、いわゆるオーラを見る方法も、実はこの周辺視野で見るやり方なんですよね。ですから、霊的な視野を成長させれば、オーラが見えるようになるということかもしれません。ちなみにわたしはかなり訓練していて、エーテル体かもしくはプラーナ(氣)は見ることができます。いつかまた、それについては別に書こうと思いますが、ほんとうに見えるだけなので、実用性はいまのところまったくありません。

もう一つ、これはOSHOが言っていたことですが、「肉眼で見ることをやめると、そのためのエネルギーが第三の目(サードアイ)へと流れはじめる」そうです。肉眼で見ることをやめる、とはどういうことか? わたしはずっと考えていましたが、おそらくこれも、「見る」から「見える」へのシフトのことだと思われます。

ちなみにこれらのことに関しては、こちらのBLOG記事にも書いています。よかったら読んでください。それでは、今回はここまでです。読んでくださってありがとうございました🙂



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