見出し画像

大事なんだけど、一番じゃない

 命より大事なものなんて、たくさんある。
 
 前に「あなたがムダに生きた今日は、昨日死んだ誰かがどうしても生きたかった一日」というセリフを聞いた。モヤっとした。それを言ったら、昨日自殺した人がどうしても見たくなかった一日でもある。誰かが命を捨ててまで、見ることを拒否した今日。
 
 命を大事だと思っている人は、簡単に死んでしまう人が理解できない。どうして、なんでそんなことを。生きてさえいればきっといいことがあるのに。
 
 こう言える人はきっとまっすぐで、命があるのをいいことだと思っていて、そういう意味でとても幸せなのだ。自分もそうであれたらよかった。まっすぐで善人で、みずから死ぬのはよくないことだと言い、一日を無駄に生きた他人を暗に批判する。こういう人が世間で受け入れられるのはあたりまえで、ひねくれているのは私のほうだ。
 
 自殺したい日々があった人間としては、いろいろ言いたいこともある。
「生きてさえいれば」って言うけど、曲がりなりにももう生きてきたんだ。いつかは晴れるとかいう話じゃなくて、いまの土砂降りの雨がもう耐えられない。「いま」がもう耐えられない。「いつか」なんてものはない。
 
 辛いときはこういう気持ちだった。昨日死んだ誰かは、「誰か」であってわたしじゃない。「辛いところを乗り切って幸せになった人がたくさんいる」も意味がない。それは誰か他人であって、いつも私ではないから。他の別の誰かの話をされても困る。
 
 逆境に立ち向かって克服した人の美しい話とか、困難を乗り越えて見える美しい風景の話だとか。そんなこと聞きたくなかった。だれかが自分を励まそうとかけてくれた言葉の、すべてが的外れに思えた。そういう話じゃないんだよ、わたしは永遠にその「誰か」にはならない。自分がどん底に沈んでいるときに、運よく浮き上がった人間の話なんて聞きたくない。
 
 沈んでいるときの気持ちはこういう感じ。書いていて思うけど、すごく自分勝手なのだ。苦しいときは自分しか見えてない。他人のことを気にする余裕がなくなって、ひとりの苦しみで手一杯になってしまう。そうして「こんなに悩んで痛んでいるのに、だれも私を理解してくれない」とか「気にかけてくれない」とか、他人を責める思考回路になる。
 
 あれが嫌だ。追い詰められたときにはだれでもそうなんだろうけど、助けてくれない他人を責め始めるから醜い。できることなら、あまりそうはなりたくない。他人にだって生活がある。被害者ぶって救ってくれと叫ぶ人のことを、助ける余裕のある人なんて、そうそういはしない。辛いとそれすら理解できなくなるから嫌だ。
 
 苦しみが続くくらいなら、命なんて捨ててしまったほうがいい。当時は本気でそう思っていたし、だからビルの屋上までのぼりもした。死ぬには半端な高さだったせいで、飛び降りるのは諦めた。
 
 「命が一番大事」って言える人は、肝っ玉が座っている。どんなに恥をかいても名誉や尊厳を失っても、苦しくても惨めでも、それでも命が一番大事だなんて自分は言えない。生きているのが耐えがたいときに自殺できるのは、人間の権利くらいに思っている。
 
 父親はときどき、自分の老い先を考えたときに「延命治療だけはごめんだね」と言う。
「点滴でぐるぐる巻きにされて、人の世話になり続けて、生きてるだけだ。あんなに哀れなものはないね。俺がそうなったら、とっととあの世に送ってくれ」
 
 大事なのは幸福に生きることだ。命そのものじゃない。このあたりのスタンスは、父親と私で似ている。命を大事にするがあまりに人生をないがしろにしたら意味がない。むしろ「なんのためなら命を捨てられるか」考えるほうがいい。
 
 ある人は子どものため、ある人は祖国のため、ある人は名誉のため、ある人は信仰のために命を捧げるけど、それが悪いことだとは思えないんだよな。いのちは確かに大事、でも一番じゃない。生命至上主義なセリフを聞くと、そんなことを思う。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。