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「死なないで」って今も言えない

 高校生のころ友達から「死にたい」とメールが来た。深刻な内容だから返信に悩んだ。悩んで「死なれたら悲しいけど、あなたの意志なら受け入れる」という内容を送った。この対応はずっとあとになってから不満を言われることになる。
 
「なんであのとき『あなたがそうしたいなら仕方ないね』みたいに言ってきたの。わたしは『死なないで』って言われたかった」
 
 その人とはもう連絡を取ってない。コミュニケーションのむずかしさを教えてくれる人だった。
 
 「死なないで」って言われたいものなんだろうか。自分は人にそういう相談をしないから、腑に落ちない。やりたい人は黙ってやるし、口に出すくらい死にたいなら、したいようにさせてあげるのが親切だと思ってしまう。悲しいことは悲しいけど。
 
 世の中にこういう人はよくいる。自分も時にはやっているかもしれない。自分で自分をおとしめたり、ネガティブなところ見せたりして、相手からそれを否定してもらおうとする。否定してもらうことで安心する。そういう会話形式ってある。
 
 「私はもうトシですから」「いえいえ、まだまだお若いですよ」。「わたしブスだから」「そんなことないよ、かわいいよ」。こういうコミュニケーションは、一個の儀式として確立されている。友達の「死にたい」も、その一種だったらしい。
 
 わかんなかったなあ。つぎ誰かに同じことを言われても、死なないでとは言えないかもしれない。
 
 むかし母親が、なぜか自殺の方法を教えてくれたことがある。
「どうしてもって時は、手首を横じゃなくて縦に切るんだよ。横に切っても死ねないからね」
「なんでそんなこと教えてくれるの?」
「死にたいときに死にきれないほど、中途半端でみじめなもんもなかろ?」
 うーん、どうだろう。いずれにせよ、わたしは母親に向かって死にたいと言ったことはない。そもそもまだ生きていたいし、怖くて言えないというのもある。
 
 それにしても、なんで生きていたいのか。大学の同期とそんな話になったことがある。
「私たち、やろうと思えばいつでも死ねるのに、死を選ばないのはなんでだろう」
「だって理由がないじゃん。死を選ぶ理由がない。十分でしょ」
 同期の一人は言った。だって痛いのも苦しいのもヤじゃん。あと親とか悲しむのも想像できるし。「わざわざやる理由がない」って、立派な理由じゃない?
 
 もう一人は、人生は苦しいものだけど苦しいことに意味がある、自分は絶対に投げ出さないと言った。私とはまったく考えが違っていて、こういう人もいるのだと思った。
 
 いま考えれば、同期を変な会話につきあわせたことになる。当時の自分はとても苦しくて、ビルの屋上に上がって「この高さじゃせいぜい脚の骨を折るのが関の山だ、死にきれない」と考えたりしていた。毎晩のように泣いていて、まぶたがひどく腫れていた。
 
 そういうときに「他の人はこの話題に戸惑うかも」という配慮はできない。できなかった。切羽詰まっているときは、相手を自分につきあわせることばかり考えてしまう。

 いま振り返ると、自分が苦しいときは他人を巻き込んでいいと思っている、その醜さが嫌だ。余裕がない人間はこうして嫌われる。同期は大人なのでいまだに会って話してくれるけど、私は件の友人と(いろいろあった挙句)絶交した。
 
 自分は冷たい人間なのかもしれない。「死にたい」と言われて「死なないで」と相手を止めるほどの情熱がない。だれに対しても。できる限り相手の意志を尊重したいと思う、この気持ちはすごく冷たく映るのかもしれない。
 
 人を救う人間にはなれないだろうな、と思う。「私はあなたが好きだから、あなたの意志に反してでも生きてほしい」とは言えなくて、言えないまま生きる。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。