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美しさには曖昧を持って

 『美とミソジニー』を読んでる。副題「美容行為の政治学」。
 
 女性が美しくなろうとするあらゆる努力は、この性別が劣位に置かれていることの証左である……。本の内容を一文でまとめるとこうなる。
 
 暗に陽に女性に期待されている行為がいかに健康を損ね、あるいは女性たちの自尊心や時間を奪っているか。化粧、ハイヒール、美容整形や豊胸が及ぼす負の影響について詳細に書かれている。

 男性においてはこれらの行為は期待されていないのだから、美にまつわる行為の多くが女性差別的なものである。女たちはそれが自分の選択であるかのように言うけれど、それは結局のところ男性による支配を覆い隠しているに過ぎない。そんな内容。
 
 自分も女性ではあるけれど、どこか他人事のように読んだ。
 
 なにせヒールを履いてない。化粧も普段はしない。整形も豊胸も未経験。本の中に出てくる女性のように「筋肉質に見られたくない」という理由で、ふくらはぎにボトックス注射をしたりもしていない。

 書籍に書かれた「女性」たちは、自分とかけ離れているように見える。スニーカーを履いて素顔で出勤する女性は、いないことになっているのかもしれない。
 
 こういうことが時々ある。女の子って女性って○○だよね、と言われたときに、自分があてはまらなくて首をかしげてしまう。
 
 「女の子ってつるんでトイレ行くじゃん?」と言われたときには「別に1人で行くよ」と答えていた(これは自分だけじゃなくて横にいた友達もそう言った)。なんでつるむのが当たり前みたいになってるんだろう、普通に1人で行くよ。いまでもそう思う。
 
 「自分の外見で不安になって、整形したいのなんて普通じゃん?」と言われても、よくわからない。普通なのかな。確かに美容整形の広告は頻繁に見かけるから、整形したいって気持ちはわりと一般的なのか。じゃあそれを考えない自分は普通じゃないのか。
 
 自分だって、きれいなほうがいいとは思う。でもそれは「痛みと恐怖に耐え、金をかけ体を傷つけながらでも美を追うべし」みたいな、強い執念とは違う。この2つの気持ちは、まったく別のものだ。

 美しいものはいい。それはそれとして「美の基準から外れたものは全部悪!」ってことでもない。
 
 美しさに執着する人は、美の定義から外れるのを過剰に恐れているように見える。なんでそんなに「美=善、その他=無価値」の二元論なんだろう。もっと曖昧でいいような気がする。
 なんでも黒白つけるのがいいわけじゃないし、自分は積極的に曖昧でありたい。
 
 美容行為の多くが性差別的に見えたとしても、その全部を悪だとも思わない。例えばもともと容姿に恵まれない人が、整形と化粧を奪われたらどうなるだろう。生まれつき綺麗な人だけが、永遠に綺麗な世界が出来上がる。それはそれで不公平だ。
 
 だけど十人並みかそれ以上の容姿に生まれた人が、強迫観念に駆られて体を刻む世界がまともだとも思わない。そこには(本に書かれているように)コンプレックスを刺激してお金に変えようとする人々の思惑がうごめいている。
 他人の自尊心を奪い、不安に付け込んで商売するのはよくない。過剰にコンプレックスを煽るやり方には、異議が唱えられてしかるべきだ。
 
 ところで読んでいて気になった箇所があって、内容とはまったく関係ないけれどこれ。「デパートで男性服売り場と女性服売り場を何気に見て回るだけで(…)」。

 「何気に」ってスラングじゃなかったんだろうか。と思って国語辞典を引いたところ「何気に」でちゃんと載っていた。「参考」と赤文字で書かれたあとに『「何気なく」「何気無しに」の誤用から』と書いてある。
 
 「何気に」正式な副詞になっていたんですね。知りませんでした。

文中で使用した国語辞典は、旺文社国語辞典第11版。


本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。