病気じゃないけど、治るといいでしょ
「人を治す」と言う。怖い表現だ、と思う。「治す」は「直す」と音が同じだ。壊れているから元通りにする、使えないから使えるようにする。治療するほうの「なおす」にも、同じ意味の響きがある。
でも人を治すってどういうことなんだ。だれがそれを「壊れている」とか「使えない」とか「正しい道から外れている」って判断するんだ。
こういう問いは、実際に医療の現場にいる人こそ抱いている。木村敏先生がそうだった。精神科医で、分裂病(いまは「統合失調症」)の患者をたくさん見ていた人。木村先生は「治療する」という言葉が持つ高慢さに対して敏感だった。だから本の中でも、ずっとこの言葉にモヤついている様子が見て取れる。
私たちは「正常」を「みんながそうである」という意味で使う。たとえば指は五本あるのが「正常」だ。なぜならばみんなそうだから。私は私でしかなくて、他の人になることはできない、それが「正常」だ。だって世の中、そういう風にできているから。
本当は、指が五本であることになんの必然性もない。本当は、私が私であることを支えるものは何もない。分裂病の患者はよく、自分が別の人と重なっていると言う。あるいは他人が、また別の他人と同じだと話す。
私たちは「私=私」を信じているから、彼らのことを「異常だ」「治療の必要がある」と言うけれど、それはどこまで当たっているんだろう。単に自分たちを正常だと思いたいがためだけに、彼らを異常呼ばわりしているだけってことはないか。
分裂病が「異常」で「治すべきもの」という発想が、正しいとは言い難い。「だけど」と木村先生は言う。
「病気」とか「まちがっている」と言うのははばかられても、不幸な状態であることに変わりはない。できることならその苦しみを取り除けたほうがいい。木村敏はこういう意味で「治療」を使う。
あなたがまちがっているわけでも病気なわけでもない。でもあなたが苦しいなら、その苦しみを取り除きたいと思う。そういう意味での「治療」。患者を異常だと断罪しているのではない。間違っているものを矯正する「治す」じゃない。あくまで「悩みを消していく」というスタンス。
わかるなあ、と思う。自分は障害を背負ったわけではないけれど、とにかくやることが人と違って悩んでいたときがあった。周りに合わせることができなかった。そういうとき「人と違うのが辛い。異常でいたくない」とこぼすと、周りはだいたい言うのだ。
「人と違うのは個性だよ。いいことだよ。成功してる人たちなんてみんな異常じゃない?普通だって言われるより、違ってるって言われるほうがいいよ」
そうじゃないんだ。個性だとか言ってくれなくていい。薬を飲めば普通になれますって言われるほうがずっといい。私の言ってる「異常」は、特別だってことじゃない、クズカス普通になれない迷惑なほうの異常だ。どうせそっちは個性だなんて誰も言わない。
「治す」という概念は高慢だけれど、「違いは個性よ」なんて言葉で苦しみを無化するよりずっといい。
本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。