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病気じゃないけど、治るといいでしょ

 「人を治す」と言う。怖い表現だ、と思う。「治す」は「直す」と音が同じだ。壊れているから元通りにする、使えないから使えるようにする。治療するほうの「なおす」にも、同じ意味の響きがある。
 
 でも人を治すってどういうことなんだ。だれがそれを「壊れている」とか「使えない」とか「正しい道から外れている」って判断するんだ。
 
 こういう問いは、実際に医療の現場にいる人こそ抱いている。木村敏先生がそうだった。精神科医で、分裂病(いまは「統合失調症」)の患者をたくさん見ていた人。木村先生は「治療する」という言葉が持つ高慢さに対して敏感だった。だから本の中でも、ずっとこの言葉にモヤついている様子が見て取れる。
 
 私たちは「正常」を「みんながそうである」という意味で使う。たとえば指は五本あるのが「正常」だ。なぜならばみんなそうだから。私は私でしかなくて、他の人になることはできない、それが「正常」だ。だって世の中、そういう風にできているから。
 
 本当は、指が五本であることになんの必然性もない。本当は、私が私であることを支えるものは何もない。分裂病の患者はよく、自分が別の人と重なっていると言う。あるいは他人が、また別の他人と同じだと話す。
 
 私たちは「私=私」を信じているから、彼らのことを「異常だ」「治療の必要がある」と言うけれど、それはどこまで当たっているんだろう。単に自分たちを正常だと思いたいがためだけに、彼らを異常呼ばわりしているだけってことはないか。

いずれにしても、分裂病を「治療」しようとする考えの中には、精神異常者に対する常識的日常性の側からの排除的意識がひそんでいることは確かである。

木村敏『異常の構造』講談社、2022年、173頁。

 分裂病が「異常」で「治すべきもの」という発想が、正しいとは言い難い。「だけど」と木村先生は言う。

 しかしそうはいっても、分裂病であるということはやはり不幸なこと、気の毒な状態であることに変りはない。だれもみずから好んで分裂病者になりたがる人はいないだろう。だから、もし分裂病者を分裂病者でなくすることが可能であるものならば、あるいはすくなくとも彼の「分裂病的症状」を取り去って、彼が分裂病者であることが他人にわからなくなるものならば、そのような「治療」はやはり歓迎すべきものである、と私たちは思う。

同上、174頁。

 「病気」とか「まちがっている」と言うのははばかられても、不幸な状態であることに変わりはない。できることならその苦しみを取り除けたほうがいい。木村敏はこういう意味で「治療」を使う。
 
 あなたがまちがっているわけでも病気なわけでもない。でもあなたが苦しいなら、その苦しみを取り除きたいと思う。そういう意味での「治療」。患者を異常だと断罪しているのではない。間違っているものを矯正する「治す」じゃない。あくまで「悩みを消していく」というスタンス。
 
 わかるなあ、と思う。自分は障害を背負ったわけではないけれど、とにかくやることが人と違って悩んでいたときがあった。周りに合わせることができなかった。そういうとき「人と違うのが辛い。異常でいたくない」とこぼすと、周りはだいたい言うのだ。
 
「人と違うのは個性だよ。いいことだよ。成功してる人たちなんてみんな異常じゃない?普通だって言われるより、違ってるって言われるほうがいいよ」
 
 そうじゃないんだ。個性だとか言ってくれなくていい。薬を飲めば普通になれますって言われるほうがずっといい。私の言ってる「異常」は、特別だってことじゃない、クズカス普通になれない迷惑なほうの異常だ。どうせそっちは個性だなんて誰も言わない。
 
 「治す」という概念は高慢だけれど、「違いは個性よ」なんて言葉で苦しみを無化するよりずっといい。




カバー取って読んでたから気づかなかったけど、これ表紙はハマスホイの絵ですね。


本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。