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美人とは別のなにか

 遠縁の親戚に、昔とても美人だった女性がいる。母によると「東北の田舎町に1人だけ並外れてきれいな子がいるもんだから「掃き溜めにツル」って言われてた」。
 この女性にはいろいろエピソードがある。
 「職安で座っていたら『君うちにおいでよ』って声をかけられて就職が決まった」とか「呑みに行こうって言われて行ったら、飲み屋でバニーガールの恰好をさせられた」とか「地方コンサートに来ていた郷ひろみが振り返った」とか。
 母いわく「一緒にご飯行くとね、『いま男呼んで奢らせるからちょっと待ってて!』とか言われるんよ」。
 
 親に連れられて初めて会ったとき、その人は50を超えたくらいだった。母に「いまでもキレイでしょ」と言われたけど、よくわからない。
 なるほどパーツの形は整っていて、色が白いから普通の人よりは目立つ。顔はどこかポカンとしていて、それなりに手頃な感じの服を着ていて、ちょっときれいな普通の人だと思った。
 
 それからずっと後になって、自分も就職活動をするようになって、『若者ハローワーク』みたいな場所で座っていたこともあった。別に声はかからなかった。それはそうだろう。私は普通に試験を受けて、普通に面接を受けて、普通に仕事に就いた。
 
 座ってるだけで仕事が決まるってどういう感じなんだろう。想像がつかない。「美人はいいな」とかじゃなくて、想像がおよばない。
 
 「女性は外見の優劣によって受ける待遇に激しく差があり、美人に生まれるのは資産を持って生まれるのと同じこと」。あからさまにこう言う人は少ないけれど、それに近いセリフはそこここで見聞きする。
 女子寮にいた頃にも、食堂で聞こえてきた。
「美人とブスでは生涯年収が一億ちがうらしいよ。幼稚園のころの『飴あげようか』から始まって~」
 
 始まって、そのあとは何なのかよく聞かなかったけど、美人なら奢ってもらえるし年収の高い男性と結婚できるしうんぬん、という話が続いたようだった。
 「一億」という数字に明確な根拠はないだろうし美人とブスの定義もあやふやだけど、こうやって会話になる程度には皆その説を信じてるんだな、と思う。そうして外見ひとつで成り上がった女性の話を見聞きすると、ちょっと考え込んでしまう。
 
 美人に生まれればよかったかな。なにか違ってたかな。綺麗に生まれついていれば、美しさをお金に変えられたんだろうか。一気に別の世界にワープするように成功する可能性が、いまよりずっと高かったんだろうか。
 わからない。二つの人生を生きて、比較することは誰にもできないから。
 
 でも一個だけ思うのは、小さい頃から「女」だった女の子たちのことだ。
 小学校低学年くらいだろうか。自分が図書室で「炎は外側を『外炎(がいえん)』、内側を『内炎(ないえん)』と言う。また赤いより青いほうが温度が高い」とか読んでいるときに(勉強中の単元でもなければテストにも出ない)
「私は女よ。何事も頑張るのはダサい、チヤホヤされて生きるの」と最初から決めて生まれてきたかのような女の子たち。美容と今日の宿題と、好きな男子の話題で盛り上がれる。
 中学生くらいになると、同じ部活の子に宿題を押し付けるか見せてもらう子たち。何を要求するにも堂々としていて、気持ち悪いと思ったものには即座に「キモい」と口に出し、自分にはそうする権利があるのだと信じて疑わない子たち。
 「美人」とは別の何か。持って生まれるもの。自分の優位を疑わない能力。
 
 自分にはなかったなあ。あれば人生違った能力は、どっちかと言えばこっちだろう。「そんなもの欲しいんですか。なんで?」と言われたら、だってあの人たち人生楽しそうだから。何やっても許されるって、信じて生きてそうだから。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。