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先生はずっと「先生」であってほしい

「先生は自分をわかってくれる、自分を気にかけてくれると思ったら、生徒はどんなことでも、なんでも学べるものだ」

デイヴィッド・グッドハート『頭 手 心 偏った能力主義への挑戦と必要不可欠な仕事の未来』外村次郎訳、実業之日本社、2022年、417頁。


 いまの教育は変わっていく……と予想する人はいる。将来、教室がなくなりすべての学びはネットを通じて行われるようになるでしょう。国内の一番優秀な先生の授業を動画で配信すればよろしい。だから生身の先生が一教室に一人、なんてこともなくなります……。
 
 それはどうだろう。なるほど部分的には、オンラインで授業動画を視聴して予習・復習するような形はありうる。でもリアルで出逢える「先生」がなくなることがないんじゃないか。
 
 誰かが──生身の誰かが、物理的に見えるところで見守ってくれて、気にかけてくれていること。誰かがそのつど、努力を認めてくれること。その安心感があって、初めて人は「学び」の扉を開ける。
 
 逆を考えてみればわかりやすい。最初の「先生」がまるで自分に関心のない、一切がんばりを見てくれない人だったら、まず何かを学ぼうって気にはならない。やってる内容がおもしろいと感じる前にやめてしまう。
 
 物理的な教室は、オンライン授業と違って先生が見える。先生と目が合うこともある。多かれ少なかれ自分たちは見られる存在で、誰かの視界の中に自分が存在していることになる。
 
 感覚の鋭敏な小さい頃に「ちゃんと存在を認めてもらえている」と感じられるのはいいことで、物理的な教室の役割はそのへんになっていくんじゃないか。ただ勉強を教える以外の「先生」の役割が期待される場所。
 
 それとは別に、先生方が優れた授業をするための方法を動画で学ぶ……みたいなことはあるだろう。純粋に知識の習得が目的になるときには、場を選ばないオンライン学習のほうがいい。こういう学び方は便利だけど「大人のもの」だ。
 
 だから仮に「全家庭にPCを配布します。学校はなくします。各自オンラインで勝手に勉強してください。そうすれば学びたい子は学年に関係なく先に進めて、学びがゆっくりな子が置いていかれることもありません」って世の中になったとしても……
 
 それでも「先生」とか「先生的な存在」は必要になる。子供を見守って、理解しようとする人。子どもたちが「この人に期待されているなら頑張るか」と思えるような、最初の動機になる人。
 
 人を見守り、ケアする仕事は、いまの社会ではあまり尊敬されてない。教師の仕事は多岐にわたる上に保護者からのプレッシャーも強く、公立校の教師はなり手が減っている。休日は部活動でつぶれて、テストの採点は家に持ち帰ってやる、なんて話も聞こえてくる。
 
 でもそんなんじゃなくて、それこそ部活動なんて地域にいる指導者にでも任せて、本来の仕事に注力してほしい。生徒と向き合う仕事、ケアし見守る側としての教師の仕事。
 
 最近では先生たちもドライになって「プライベートの時間は一切犠牲にしません、ちょっと手を焼く子は見捨てます。人を救うのはあたしの仕事じゃないんで」って人も増えた。効率を重視すれば、厄介な子は見捨てるほうが「正解」になってしまう。それは社会がちょっと「効率」に偏っている証だと思う。
 
 いま読んでいる『頭 手 心』は、現代社会が「頭」つまり学歴や知識、効率と合理性に偏っていると説く。私たちは合理性を愛し学歴社会を築き上げる一方で、ケア労働に関わる人々を不当に冷遇してきたんじゃないか。
 
 著者は、その傾向は変わっていくだろうと分析する。というより、この「頭」への偏重は早急になんとかしないといけないと。私たちは肉体を使った「手」の労働や、感情労働が求められる「心」の分野を、もう一度見つめ直す必要があると。
 
 「心」については『頭 手 心』を読みながらもう少し考えてみたい。


本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。