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さよなら家庭訪問

 むかしは学校の先生が生徒の家まで行って、なにかしら話し込んでいく風習がありました……。ひょっとしたらいまごろ、歴史の教科書なんかにそう載っているかもしれない。自分が小学校の頃に「家庭訪問」は姿を消した。
 
 祖母は小学校の教師だったから、いろんな生徒の家に行った。いまならコンプライアンス上、許されないが、夕食と酒をふるまわれて帰る先生もいたらしい。「そういう時代だった」と生前の祖母は、秋田弁で当時を振り返っていた。
 
「んだどもよ、あれ家っていうのは玄関さ立てば、その家のことがわかるもんでよ」
 
 それにしても、玄関に立てばその家のことはわかるものでね。祖母はそう言っていた。
 
「一回、きちーんとした家さ行ったことがあってよ。もうなんもかも片付けられてピカーとしてらあんだ。だども玄関さ行った瞬間、冷たーい感じがしたでな。そこの嫁さんだば頭のいい人でよ、さっさと出て行ったらし」
 
 見た瞬間から「冷たい感じのする家」というがあったらしい。なにもかも整えられてはいるけれど、決して温かい雰囲気のしない家庭。祖母がその家でなにを話して帰ったか知らない。
 
 ずいぶん歳を取っても覚えているくらいだから、よほど印象に残ったんだろう。初めて行く祖母が「冷たい」と思うような玄関を、毎日くぐる人の気持ちってどうだったんだろうな。そんなことを考えてしまう。
 
 家庭訪問がどうして消えていったのか、それは単に時代にそぐわない文化だったからだろうが、それでよかったと思う。家まで来た赤の他人に家庭の雰囲気がバレてしまうのだから、歓迎しない人だっているだろう。
 
 むかしの担任のひとりは、家の玄関に立つなり背伸びをして、ジロジロと奥のほうまで気にして行った。詮索屋の人間が家に来るのは、来られる側としてもうっとうしいので、やっぱりなくなってよかった文化。
 
 と思っていたら、あるところにはいまだにあるらしく、ああまだご健在だったんですねという気持ちになる。人によっては「先生が来るのは緊張するけど、子どもの学校での様子を聴けるのは嬉しい」と前向きに捉えていて、自分との違いを実感する。
 
 正直、自分なら先生に来てほしくない。生徒側としても、恐らくは親としても。担任の先生は確かに、短期間とはいえ一緒に子どもを育てていく人だ。家庭のことを知っておいてもらうほうがいいのかもしれない。
 
 でもそれ以上に、プライベートなところに首を突っ込まないでほしい……とも思う。家は私的空間だと思っているから、そこに他人が入ってくることに、いつもわずかな抵抗がある。それで昔から、家に人を招くことに積極的じゃなかった。
 
 友達は、自分の部屋まで入れてくれる人が多かったから、これは自分のほうが少数派なんだろう。社交的に生きていこうとすれば、家や部屋に人を招くのはあたり前のことなのかもしれない。でもやりたくない。社交には向いてないなあと思う。
 
 いろんな家を見てきた祖母は、人が来ると聞けばとにかく綺麗に片付けた。日常を過ごしている場所を見られたら、なにを感知されるかわからない……と、教師時代の体験と警戒心がそうさせたんだろう。
 
 確かに、些細な物からいろんなことがバレるものね。食卓にあるスーパーのチラシ、置いてあるサプリメント、使っている日用品の価格帯。そういうところから「ああ、ここのお家ってこうなのね」と判断される。祖母はそれをよくわかっていたのだ。
 
 他人に詮索されるのが嫌なら、最初からその材料を渡さないこと。祖母の姿勢からはそんな教訓がいつも滲み出ていて、結果として孫の自分も「メルシーちゃんは、ホント秘密主義者なんだから」と友達に言われるくらいになった。
 
 その自分が、こうしてエッセイを書いているのも変な感じがする。部屋を見せるのは嫌なのに、読んでいる本や考えていることはバレてもよくて、ついでに家族の話もする。王様の耳はロバの耳、と虚空に向かって叫ぶみたいに文章を書いている。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。